2019年4月9日、財務省は2024年度上半期を目処に紙幣を刷新することを発表した。新紙幣のデザインに採用される肖像画は、1万円札はこれまでの福沢諭吉から渋沢栄一へ、5千円札は樋口一葉から津田梅子へ、千円札は野口英世から北里柴三郎へと変更。紙幣の刷新は2004年以来、20年ぶりのこととなる。
ここに挙げた顔ぶれを見ても分かるように、紙幣に採用されるのはいずれも国の発展に重要な役割を担った人物ばかり。渋沢は日本資本主義の父と称されているし、津田は女性の高等教育機関の設立に尽力した。北里は近代医学の礎を築いた人物として知られている。
本連載では、彼らの残した多大な功績と、今日の日本に与えた影響や思想を、その生涯を振り返りながら解説する。第二回は、新5千円紙幣に描かれる津田梅子だ。「津田塾大学」の創始者として、現代にもその名を残す彼女が、このタイミングで新紙幣に描かれることに決まったことは、日本社会にとって意義深いことになるかもしれない。

「どうすればいいんだ、こんな幼い子をよこして」
津田梅子は1864(元治元)年、現在の東京都新宿区に生まれた。父は佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の元藩士である津田仙(せん)。佐倉藩は幕末にあって西洋の文化を積極的に取り入れる開明的な藩として知られるが、当時は「オランダかぶれ」などと揶揄されていた。
仙が初めて西洋に触れたのは、江戸湾警護の任にあたっていた時のこと。当時17歳だった仙は、黒船を間近に見ている。その影響もあってか、仙は江戸でオランダ語を学び、その後、横浜で英語を身に付け、幕府によるアメリカへの使節派遣にも随行している。
帰国した仙は、やがて北海道開拓使として仕事をするようになるが、この時に知遇を得たのが、黒田清隆だ。折しもその頃、明治新政府は欧米文化の視察を名目に、岩倉具視、大久保利通といった政府要人が、こぞって海外へ旅立とうとしていた。黒田は、この岩倉使節団に女子を随行させることを提案していた。アメリカの教育を受けさせた女子に、北海道開拓の一助を担ってもらうことが目的だった。
それを聞いた仙は、矢も盾もたまらずに応募し、わずか6歳の娘を渡米させることにした。その娘こそが、幼き日の津田梅子だ。
1871(明治4)年、日本初の女子留学生に選ばれたのは、梅子を含めて5人。永井繁子(10歳)、山川捨松(11歳)、吉益亮子(14歳)、上田悌(16歳)といった面々だった。最年少の梅子は抜きん出て幼く、当時、ワシントン弁務公使を務めていた森有礼は「どうすればいいんだ、こんな幼い子をよこして」と嘆いたとの逸話が残る。
11年ぶりの日本で見た残酷な現実
海を渡った梅子は、ワシントン近郊のジョージタウンで、日本弁務館書紀を務める画家のチャールズ・ランマン夫妻のもとに預けられた。ここで梅子は英語やピアノを学んでいる。
梅子との共同生活が始まってしばらく経った頃、ランマン夫妻を驚かせることがあった。渡米からわずか2年ほどの間に、梅子は… 続きを読む