オリンピックでとかく注目されがちなのが、金メダルの獲得数だ。日本選手団は、1964年の東京大会と2004年のアテネ大会で最多の16の金メダルを獲得。2020年の東京オリンピックでは、日本オリンピック委員会(JOC)は、これを大幅に超える金メダル30個を目標として掲げている。
しかし、日本が金メダルを獲得するまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。前回触れた通り、日本の五輪初出場は1912年のストックホルム大会だったが、日本が初めて金メダルを獲得したのは、1928年のアムステルダム大会。初参加から16年も後のことだった。
今回は、初めて日本人が金メダルを獲得したアムステルダム五輪と、それに至るまでの道のりについて振り返る。

金栗四三のメダルは戦争によって消え去った
前回は、日本が初めて代表選手を送り込んだ、1912年の第5回ストックホルム大会について触れた。代表選手となったのは、NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公であるマラソンの金栗四三と、短距離の三島弥彦。残念ながら、両名とも成績は散々であった。
特に、オリンピック前の選考会で、世界記録を27分も縮める2時間32分45秒(当時のマラソンの距離は40.225km)という大記録を打ち立てた金栗に対する期待は大きかった。それだけに、レース途中で気を失いそのまま棄権という結果は、本人にとっても耐え難いものであっただろう。レース翌日の金栗の日記には、このような所感が綴られていた。
「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日になりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。(略)その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」
その決意通り、金栗は1914年11月23日に行なわれた第2回陸上競技選手権で、再び世界記録を更新する2時間19分20秒という記録を樹立。ランナーとして、最も脂ののった時期を迎え、間違いなく次のオリンピックのメダル候補に浮上した。
1916年に開催が決定していた第6回オリンピックの会場は、ドイツ帝国のベルリンだった。しかし1914年6月28日、ボスニアのサラエボで、オーストリア帝国の皇太子夫妻が暗殺された(サラエボ事件)ことから、第一次世界大戦が勃発。代わりの都市が選ばれることもなく、中止となった。おかげで金栗は、選手としてピークに達した時期に、オリンピックに出場できなかった。
これと似たようなことは、1980年のモスクワオリンピックでも起きた。日本は同大会、当時のソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議し、参加を見送ったが、この時選手としてピークを迎えていたのが、マラソンの瀬古利彦氏(現、日本陸連強化委員会 マラソン強化戦略プロジェクトリーダー)。瀬古氏はボストンマラソンで優勝するなど世界大会で数々の結果を残したが、オリンピックではメダルを獲得できないまま現役を引退することとなった。
日本人初のメダルはテニスだった
戦争が終結した翌1919年。IOC(国際オリンピック委員会)会長のクーベルタンは5年ぶりに開かれた総会で、翌年の第7回大会の開催地を、あえて戦争で荒廃していたベルギーのアントワープに決定した。それには「平和の祭典」が開かれる喜びを、みんなで分かち合おうという気持ちが込められていたのだ。
この大会、日本は陸上競技、水泳、テニスの3競技に、15人の選手を派遣。テニスの熊谷一弥がシングルで銀メダル、さらに柏尾誠一郎と組んだダブルスでも銀メダルを獲得。日本に初めてのメダルをもたらした。ちなみにマラソンの金栗は、16位という成績であった。
続く1924年の第8回大会はパリで開かれた。日本からは陸上競技に8名、水泳6名、レスリング1名、テニス4名の選手が参加。メダルを獲得したのは、レスリングのフリースタイル・フェザー級に出場した内藤克俊選手だけだったが(銅メダル)、2大会連続のメダル獲得に成功する。
その他、陸上では織田幹雄が3段跳びで6位に入賞、競泳陣では高石勝男が100m自由形で5位、斎藤巍洋が100m背泳ぎで6位、男子4×200m自由形リレーが4位に入賞。メダルまであと一歩の活躍を見せた。
アントワープ大会、パリ大会と、日本人選手は世界でも十分に戦えるようになってきた。あとは、1位だけ。アムステルダム大会は、そんな金メダルへの機運が高まってきた中で開催された。
日本女子選手初のメダルの悲しい後日談
オランダ・アムステルダム大会には、46の国と地域から2883名の選手が参加。5月17日から8月12日の期間に16競技、109の種目が行なわれた。日本はこの大会に、43名の選手を送り込んだ。
この大会から、オリンピックは大きく方向転換を遂げている。それは、… 続きを読む