いよいよ来年に迫った2度目の東京オリンピック。地元開催で、日本選手がどんな活躍を見せてくれるのか、今から期待が高まる。
日本が近代オリンピックに初めて参加したのは、1912年の第5回ストックホルム大会からであった。その顛末は、NHKの大河ドラマ「いだてん」でも触れられているが、日本からの参加選手はわずか2人だった。それが、1960年の東京五輪では167人、2016年のリオ五輪では338人に増えている。オリンピックにおける日本選手団の歩みは、日本が成長していく歩みでもあるのだ。
本連載では、スポーツの世界で諸外国に追いつき・追い越せと奮闘する日本人の歩みを、キーとなる大会に注目し、紹介する。

そもそも、何でオリンピックが誕生したのか?
初回では、日本人選手が初めて出場したストックホルム大会にスポットを当てるが、その前に、そもそもなぜオリンピックというものが誕生したのか、その歴史について、少しだけ振り返ってみたい。
オリンピックの起源は、紀元前9世紀、古代ギリシアのエーリス地方オリュンピアで始まった、ギリシア世界における最大の祭典とされている。この4年に1度行われた競技会を、ギリシア人たちは格別に神聖化。大会が行われると、たとえ戦争中であってもその期間中は休戦にしたほどであった。その後、393年に開催された第293回を最後に、競技会は行われなくなってしまう。
それから約1500年の時を経た19世紀末、歴史書にあったオリュンピア祭典の記述に感銘を受けたフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵が、パリ大学(現・ソルボンヌ大学)における会議で、世界的なスポーツの大会を提唱した。それが決議され、1896年、古代オリンピックの故郷であるギリシアのアテネで、オリンピック(近代オリンピック)の第1回大会が開催されたのである。
第1回大会は8競技43種目が行われ、14の国と地域から241人の選手が参加。開催期間は10日間であった。しかし、資金集めが難航。しかも、国際的な競技団体も、統一されたルールも存在していなかった。参加選手も国の代表ではなく、大学やクラブの有志といった個人参加だった。さらにいえば、参加資格は古代オリンピックに倣い男性のみだった。
1900年の第2回大会は、クーベルタンの地元であるパリで開催された。クーベルタンは同時に「スポーツ博覧会」を計画。だがフランス政府は同時期に開催される「万国博覧会」に、そのスポーツ博覧会を取り込んでしまった。その結果、オリンピックそのものまでが、万国博覧会の付属競技大会のようになってしまった。
ビジネスの世界でも、潤沢な資金を持つ後援団体が、財力に物を言わせ、主催者の意図をねじ曲げてイベントを開催するケースは少なくない。このパリ大会は、まさにその典型だった。それでも、この大会から取り入れられたテニスとゴルフに、22人の女子選手が参加したのは大きな一歩であった。
続く第3回大会は、アメリカのセントルイスで開催。この時もセントルイスで同時期に開催予定だった万国博覧会との抱き合わせとなった。
1908年の第4回大会は、当初イタリアのローマで行われる予定だったが、会場準備や経費の問題がクリアされず、イギリス・オリンピック協会会長デスボロー卿の尽力により、ロンドンが代替地に決定する。この大会から選手は個人参加ではなく、国を代表するチームとなった。入場も国ごとに国旗を掲げて行進している。
クーベルタンが日本の五輪参加を熱望した理由とは
ここまでの大会で、日本人は誰もオリンピックに参加していない。なぜかというと、発足当時のオリンピックは、… 続きを読む