世界のあちらこちらで中華街のお世話になっている。外食文化が盛んでない国々や、祝祭日やシエスタなどでいっせいに店が閉まる地方でも、中華街に行けばいつだっておいしい料理が食べられるからだ。
それに、中華街はアジア人の物品調達所のような機能も果たしていて、中国のみならず日本や韓国・タイといったアジアの品物や食材も扱っているのでたいへん便利なのだ。
どうしてこのような街並みが世界中に造られたのだろう? 今回は中華街の歴史的背景を追う。

国土を追われた沿岸部の中国人
古来、海で結ばれた中国~東南アジア~東アフリカにかけての地域では、港同士をつないだ貿易で栄えていた。いわゆる海のシルクロードだ。ただ、海賊が暗躍していたこともあり、安定的で大規模な貿易が行われているわけではなかった。
比較的安定していたのは7世紀にイスラム商人が活躍した時代で、中国では唐が海と陸のシルクロードを使って大唐文化圏を築いて繁栄した。また15世紀、明の時代には鄭和が大艦隊を率いて東アフリカに到達し、中国から東南アジアに至る海域を保護した。こうした時代にも中国人は東南アジアに進出していたが、安定していた期間は短く、どちらかといえば不安定な時代に中国を捨て、東南アジアに逃げ込む人々の方が多かったようだ。
たとえば、宋は北に住むトルコ系・モンゴル系・チベット系諸民族の圧力にさらされており、女真族の建てた金に滅ぼされると南下して南宋を建国する。民族の移動によって主に中国南部の沿岸部に住んでいた人々が押し出され、東南アジアに逃れていった。
そしてその南宋もモンゴル系の元によって滅ぼされ、また追い出された人たちが東南アジアに向かう。
そして最大の流出となったのが19世紀の清朝末期だ。1840年にはじまるアヘン戦争で荒廃した清は開国を強いられる。国土は欧米列強によって植民地化し、貧困にあえぐ農民や土地を失った人々が中国を離れた。
これを後押ししたのがイギリスだ。1833年に奴隷制を廃止したイギリスはそれに代わる労働力として流出中国人を利用。彼らをクーリー(苦力)と呼び、東南アジアの鉱山やプランテーションに送り込んだ。
そしてアメリカでゴールドラッシュが起こるとクーリーは太平洋を渡って鉱山開発や大陸横断鉄道の建設に従事した。立場の弱いクーリーたちは一致団結して生活を行い、労働から解放されるとそのまま各地に広がった。
広がる中国人ネットワーク
中国はもともと多民族国家だし、支配層は時代時代に入れ替わった。しかも、中国を離れた人の多くは他に選択肢がなくて移民した。中国の政権は信用できなかったし、愛着もなかった。特に清朝はもともと満州民族の国であるうえに、農民を弾圧し、欧米の言いなりで困窮した自分たちを助けることもなかった。
そして移住先でも中国人は差別され、住む場所を制限されることも多かった。長崎・横浜・神戸が日本の三大中華街になったのも、… 続きを読む