ビジネスの世界で弱者が強者に勝つのは困難であるが、決して不可能ではない。たとえば日本の戦国時代でも、弱者が強者を打ち破る例はある。
日本史における「三大奇襲」の例から、弱者が強者に勝つパターンを導く方法を紹介する本連載。前回は、織田信長が今川義元の大軍を打ち破った「桶狭間合戦」を取り上げた。しかし、それから14年前、8万の大軍に対し、わずか3千の兵で勝利するという、関東地方の勢力図が一変するほどの、奇跡の逆転劇が起きていた。
今回は、そんな「河越夜戦」を紹介する。
圧倒的な兵力差の理由とは
戦国時代は日本の各地で戦が発生しており、それは京から遠く離れた関東地方でも同じだった。
当時の関東地方は、長きにわたって室町幕府から任命された関東公方と、それを補佐する管領の上杉家によって支配された地。古い権威が土着勢力を支配する中世的な世界だったが、公方と管領家が対立し、さらに管領の上杉家の内部分裂も発生していた。
その乱れに乗じて、新興勢力の北条氏の勢力が伸長した。初代・北条早雲、2代目・北条氏綱と名将が続き、勢力圏は急速に拡大してゆく。関東公方や管領家にとっては不気味な存在だった。しかし、元亀2年(1530年)に北条氏綱が57歳で死去。3代目を継承した氏康はまだ年若く、家臣団を掌握しきれていない。そう読んだ関東の旧勢力は「今が北条氏打倒の好機」と見て動き出す。
関東管領・上杉憲政が盟主となり、これまで対立していた分家筋の上杉朝定が、関東公方の足利晴氏と結託して、反北条連合軍を旗揚げ。天文14年(1545年)には軍事行動を起こし、武蔵国(現在の東京都・埼玉県)における北条氏の拠点だった河越城(埼玉県川越市)を包囲した。北条氏打倒を目的に結集した古い権威に、多くの土豪勢力が追従して馳せ参じる。河越城を包囲する軍勢は約8万人にも膨れあがった。
元々は相模国(現在の神奈川県)が本拠地だった北条氏は、河越城救援のため、氏康が手勢を率いて小田原城より出陣する。しかし、兵力は8,000をかき集めるのが精一杯。10倍の敵を相手に、通常の戦術では勝ち目はまずない。また、この時期の北条氏は国境を接する駿河の今川氏や甲斐の武田氏とも対立しており、戦いが長引けば、後背から攻められる危険性もあった。まさしく、四面楚歌の状況である。
敢えて「臆して逃げた」と嘲笑される
氏康はこの窮地を利用して、まずは敵を油断させる画策を行った。
河越城近郊に到達すると、… 続きを読む