「資本力や組織力で圧倒的に勝る相手に勝つ」ことは、現代のビジネスにおいては至難の業である。

 もちろん、あくまでも「至難」なだけであって、決して不可能ではない。たとえば戦国時代の織田信長は、当時の日本最強の大名であった今川義元を奇襲し、わずかな軍勢で打ち破った。この「桶狭間合戦」は、信長の天下取りの出発点となった。

 とはいえ、そのような奇襲が常に成功するわけではない。そもそも奇襲は、敵が想定外の時や場所、方法などを選んで攻撃する戦術であり、“小”が“大”と戦う場合は常套手段でもある。それだけに、大軍の側でも充分に予測して対策を講じている。敵に予測されてしまっては、奇襲の効果はゼロだ。

 太平洋戦争の日本軍も、物量に勝るアメリカ軍に対して奇襲を常套手段としたが、やがて察知され、敗戦を繰り返した。奇襲攻撃の成功率は極めて低く、考えなしにやれば全滅は避けられない危険な賭けでもある。

 それでは弱者は、確率が低いにもかかわらず、強者に対してどうやって戦えば良いのか? 日本の戦国時代における「三大奇襲」の例から、その勝利の方程式を読み解いてみる。

 初回のテーマは、先に挙げた「桶狭間合戦」。弱者である信長が強者である義元を破った裏には、信長の「情報」への徹底した意識の高さがあった。

 

勝ち目がない相手が攻め込んできた。どうする?

 永禄3年(1560年)5月、当時日本最強の大名・今川義元が、2万5,000の大軍を率いて尾張(現在の愛知県西部)へ侵攻してきた。尾張統一の途上にあった織田信長の動員兵力は2,000~3,000、まともに戦えばまず勝ち目はない。

 しかし、信長に降伏する素振りはない。尾張国境に多くの砦を構築し、兵を増員して今川軍の侵攻に備えた。状況からして、普通は「信長は“籠城戦”を選択した」と考える。城の防備を頼りに大軍の攻撃に耐え、敵が撤退するのを待つ籠城戦は、小勢が大軍に対して、勝てないまでも「引き分け」に持ち込める数少ない選択肢である。

 また、この時代はまだ兵農分離ができておらず、兵の大多数は農民を動員したものだった。侵攻軍は稲刈りまでに帰国せねばならない。時間が限られているだけに、籠城戦は勝算の高い戦法だった。義元の最終目的は、上洛して今川氏の力を諸国に知らしめることにあったと言われる。通過点に過ぎない尾張で、いつまでも時間を要するわけにはいかない。信長が本拠の清州城に篭って防備を固めれば、義元はこれを無視して先を急ぐ。実際、織田家の家臣団もそう予測して、信長に籠城を求める者は多かった。

 しかし、今川軍が尾張国境に迫っても、信長の態度ははっきりしない。実は信長の心の中は、… 続きを読む

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青山 誠

青山 誠

大阪芸術大学卒業。『坂野惇子 子ども服にこめた「愛」と「希望」』(KADOKAWA)、『戦術の日本史』(宝島SUGOI文庫)、『江戸三〇〇藩 城下町をゆく』(双葉新書)などの著書がある。また、アジア経済の情報誌「BizAiA!」で『カフェから見るアジア』、日本犬雑誌『Shi-ba』での実猟記などを連載中。
(編集:株式会社ネクストアド)

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