毎日のようにニュースで報道される世界各地の紛争だが、報道内容が常に客観的な真実を伝えているとは限らない。紛争の当事者たちは,自勢力の主張を正当化し,国際世論を味方に付けるためのPR工作をしばしば行っているからだ。

 その一例が、1992年に始まったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争だ。民族間の対立では、どちらも自分が正しいと信じており、善悪を判定するのは本来難しい。しかし、ボスニア紛争で行われたPR工作では、片方の当事者が一方的な悪者になるような露骨な情報操作がなされ、紛争の行方に大きな影響を与えた。

 知られざるPR戦争の経過は、ジャーナリスト・高木徹氏の好著『戦争広告代理店』(講談社)に詳しい。同書を参考に、どのような「情報操作」が行われたのか、戦争を招いたPR工作の顛末を紹介していこう。

 

凄惨な紛争はなぜ起きたのか?

 本題に入る前に、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の背景を説明しておこう。

 多数の民族・宗教が入り混じり、複雑な歴史をたどったバルカン半島には、かつてユーゴスラビア連邦という国が存在した。冷戦中、カリスマ的な指導者であるティトーの在任中は安定していたが、1980年にティトーが死ぬと民族対立が表面化。東西冷戦の終結を機に、スロベニアなどの各共和国が独立し、連邦は解体した。

 この地域の歴史は複雑なので、年表形式で整理する。

1991年:スロベニア・クロアチア・マケドニアが独立宣言、ユーゴスラビア紛争開始。
1992年:ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言し、ボスニア紛争が始まる。セルビアとモンテネグロからなる新ユーゴスラビア連邦が成立。
1995年:ボスニア紛争、クロアチア紛争が終結。
1998年:コソボ紛争が勃発。
2003年:新ユーゴスラビア、セルビア・モンテネグロに改称。
2006年:モンテネグロ独立。
2008年:コソボがセルビアより独立宣言。

 ざっと以上のような経過により、現在は「ユーゴスラビア」という国名はなく、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアという国になっている。また、セルビアの自治州だったコソボが独立を宣言しているが、一部の国の承認を得られていない。

 ユーゴスラビアが解体する過程により、20世紀最後の10年間は絶え間ない流血が続いた。本稿で取り上げるのは、一連のユーゴスラビア紛争の中でも、最も混迷を極めたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争である。

 

ボスニアが混迷を極めた背景

 ユーゴスラビアの解体により、諸民族は別々の共和国をつくることになった。しかし、民族の分布は複雑に入り混じっていたため、諸民族をきれいに分ける国境を引くことは不可能だった。新たにできた国の中で、異なる民族同士が争ったことで、各地の紛争が発生したのである。例えば、独立直後のクロアチアでは、クロアチア人とセルビア人が混在していたため、紛争となった。敵対する民族を自分の領域から追い出すため、強制連行や虐殺が各地で横行した。

 ボスニア・ヘルツェゴビナでは、イスラム教を信仰するモスレム人に、クロアチア人とセルビア人が混在しており、多数派が存在しなかった。1992年3月の独立宣言を主導したのはモスレム人とクロアチア人だが、セルビア人はユーゴスラビア連邦からの離脱に強く反対した。また、クロアチア人もモスレム人主体の政府に反発したため、三つ巴の内戦になったのである。この時のボスニア・ヘルツェゴビナ政府は、モスレム人によって構成されていた。

 それぞれの民族が複雑に入り組んでおり、この関係をすべて理解するのは簡単ではない。ひとまず本稿を読み進める上では、「モスレム人によるボスニア政府」と「ボスニア国内のセルビア人、および彼らを支援するユーゴ連邦内セルビア共和国」の二者が対立していることだけ頭に入れておいて欲しい。 

 

なぜモスレム人はPRを必要としたのか?

 PR工作を最初に始めたのは、モスレム人によるボスニア政府だった。… 続きを読む

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三城 俊一

三城 俊一

歴史ライター

学習塾勤務のかたわら、世界史・日本史を問わない執筆活動を行う。著書に『なぜ、地形と地理がわかると現代史がこんなに面白くなるのか』(洋泉社)。

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