ジョージ・ワシントンからドナルド・トランプまで、アメリカは45代の大統領を輩出している。その中でもっとも評価されている大統領のひとりがエイブラハム・リンカーンだ。
リンカーンはアメリカ分裂という史上最大の危機に直面し、史上最悪の戦争を戦わなければならなかった。しかしその局面で世界に確固たる威容を示し、アメリカのあるべき姿を見せつけた。20世紀の覇権国家アメリカの礎は、このときリンカーンによって築かれたと言っても過言ではない。
そのリンカーンが死守しようとしたのが「人民の、人民による、人民のための政治 “government of the people, by the people, for the people”」だ。今回はこの言葉の真意を、リンカーンの偉業とともに紐解いていこう。

農民から大統領へ!リンカーンのアメリカン・ドリーム
1809年、リンカーンはケンタッキー州の森の丸太小屋で、父トーマスと母ナンシーのもとに生まれた。父は開拓民だったが生活は厳しく、よりよい土地を求めて転々とする日々を送っていた。両親は字を書くこともできなかったが、敬虔なキリスト教徒で、道徳的に厳しくしつけられたという。少年時代、ほとんど学校に通うことはなかったが、読書が好きで多くの知識を独学で身につけた。
農家の生活に限界を感じたリンカーンは22歳で親元を離れ、イリノイ州に拠点を移す。いくつかの職を経て友人と雑貨商を立ち上げるが、まもなく倒産。1832年にはじめて州の議員選挙に立候補するが、こちらも落選。そしてまた職を転々とするなど、落ち着きのない生活を送っていた。
1834年、州議員選挙にて初当選を果たす。36年には独学で弁護士資格を取得し、やがて法律事務所を立ち上げた。46年にはホイッグ党から出馬して下院議員に選出され、ついに国政に進出する。
この頃、アメリカはメキシコ侵略を進め、メキシコの半分を支配下に置いていた(米墨戦争)。リンカーンはこうした侵略行為を厳しく非難し、南部と西部で広がりつつあった奴隷制にも反対した。しかし、リンカーンのこうした政策は大衆の支持を得られず失脚してしまう。
1852年に奴隷の悲惨な生活を描いたストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』がベストセラーになると、アメリカを二分する大論争が巻き起こる。奴隷制反対の動きが活発化する一方で、黒人はアメリカの国民ではないと結論づける最高裁判決(ドレッド・スコット判決)が成立するなど奴隷制を擁護する動きも加速した。
アメリカ分裂の危機を前に、リンカーンは1856年に共和党入りし、奴隷制反対・国家統一の論陣を張り、注目を浴びる。58年に民主党のスティーブン・ダグラスとの間で繰り広げられた7回にわたる討論会は全米の注目を浴び、その名を広めた。
1861年3月、ついに第16代大統領に就任するが、これに反発した南部諸州はアメリカ連合国の独立を宣言。南北戦争が勃発すると、リンカーンは最高司令官として北軍の指揮を執った。
1863年1月1日、奴隷解放宣言が発効。解放された奴隷を中心に黒人部隊を組織して反攻を進め、63年7月には北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍を破って形成の逆転に成功する。同月のゲティスバーグ演説で自由・平等・民主主義というアメリカの精神を確認し、その堅守を誓った。
1864年11月、圧倒的支持のもとで大統領に再選。翌年4月9日にリー将軍が降伏して事実上、南北戦争に勝利した。しかし、そのわずか5日後の14日、ワシントンで観劇中に狙撃され、56年の生涯を閉じた。
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