昨年末、一般財団法人インターネット協会の藤原洋理事長(61歳)の講演を聞く機会があった。彼はそこで、米マサチューセッツ工科大学が毎年発表するイノベーティブ企業ベスト50に、米国や中国がランクインする中、日本は1社もなかったことを指摘し、「日本の未来のために科学技術を基本としたイノベーションを」と訴えていた。
藤原はIT業界で度々イノベーションを起こしてきた人物だ。たとえばLANやMPEGの規格、デジタルハイビジョンの開発には彼が関わっている。それ以外でもIT系のイベント「Interop Tokyo」の運営権を買収し、慶應義塾大学に講堂「藤原洋記念ホール」を寄贈、さらに数学賞「藤原洋数理科学賞」を創設するなど60歳を過ぎてもエネルギッシュな活動を続けている。
インターネット勃興期から日本のデジタル情報革命の一役を担ってきた藤原は、どんな人生を歩み、仕事とプライベートをどのように両立したのか? 講演後に取材を打診すると「私でお役に立つなら、いつでもどうぞ」と快い回答を得たので、彼が代表取締役会長兼社長CEOを務める株式会社ブロードバンドタワーに訪問し、話を聞いた。

“還暦少年”が歩んだイノベーションの歴史
藤原は取材の冒頭で、著書「デジタル情報革命の潮流の中で」をプレゼントしてくれた。彼は同書で、自分自身を“還暦少年”と呼んでいる。
桜子「今は61歳なので、還暦青年?」
藤原「ハハ。(1歳差なだけなので)あんまり変わらない。還暦少年です」
1954年福岡県で生まれ、兵庫県の田園地帯で幼少期を、京都の住宅街で少年時代を過ごした藤原は、新聞記者である父の影響を受けた。父は世の中の動きを語り、他人から話を聞き出す術を教えてくれ、今の藤原の基礎になった。父は藤原が12歳から5年間海外赴任だったため、思春期は姉と祖母の3人暮らしだった。
「微に入り細に入りということでは、誰かに育てられたという感覚はないですね。ただ祖母に迷惑をかけるまい、と思って、わりと自立した子供でしたよ」
少年はやがて1977年に京都大学理学部へ進み、宇宙物理学を専攻した。卒業後は宇宙より進化が速そうな計算機に思いを定め、IBM(日本アイ・ ビー・エム株式会社)に入社。株式会社日立エンジニアリングへ移ると、制御用コンピュータやLAN(ローカルエリアネットワーク)の開発に携わる。
その後、1985年株式会社アスキー(当時)にヘッドハンティングで転職し、デジタル動画像符号化アルゴリズム、半導体チップの開発等を行う。さらに、当時NTT研究所の安田浩博士(現東京電機大学学長)と共に日本発の世界標準規格(MPEG)の標準化活動と研究開発に参加し、日本のハイビジョン放送政策をアナログからデジタルに変える根拠を創った。
インターネットとエネルギーでイノベーションが起きる
藤原の肩書は多岐にわたる。冒頭の職に加え、株式会社インターネット総合研究所の代表取締役所長最高経営責任者も務めている(1996年に藤原自身が創業)。さらに、JAXA宇宙科学研究所評議会評議員、SBI大学院大学副学長、総務省の電波政策2020懇談会構成員など、さまざまだ。
そんな彼は今、… 続きを読む