いま最も人気の高い日本酒のひとつが「獺祭(だっさい)」です。山口県岩国市の山村にある旭酒造が製造しています。
獺祭を旗印に、県を代表する企業へと成長を遂げた旭酒造ですが、1999年には事業拡大に失敗し、杜氏(とうじ)たちに見放され、廃業の危機を迎えていました。
一度は存続の危機に陥った旭酒造は、なぜ獺祭で復活できたのでしょうか。旭酒造社長・桜井博志氏(執筆当時、現在は会長)の著書『逆境経営 山奥の地酒「獺祭」を世界に届ける逆転発想法』著(ダイヤモンド社、2014年)をもとに、成功の秘密を探ります。
杜氏が消えた蔵で、データに賭ける3代目社長
桜井氏は大学卒業後、西宮酒造(現・日本盛)を経て1976年に旭酒造に入社しましたが、経営をめぐって父と対立、家業を離れ自分で石材卸業をはじめていました。1984年父が急逝すると、自分の会社は人に譲り、父の跡を継いで旭酒造の3代目社長に就任しました。
当時の旭酒造は、焼酎ブームや日本酒の消費縮小の影響を受け、芳しい状態ではありませんでした。そのため、桜井氏は就任してすぐに経営を立て直そうと、紙パック入り商品を開発したり、大胆な値引きをするなど、さまざまな手を尽くしましたが、業績の改善にはつながりません。
さらに、酒造りの仕事がない夏場にも仕事をつくって業績を伸ばそうと、当時流行り始めていた地ビールの製造と、観光客を見込んだレストラン事業に乗り出しました。しかしいずれも大失敗。酒造りを任せていた杜氏たちに逃げられてしまいした。
酒造りは、基本的に杜氏の指揮で行われます。蔵元は造りたい酒のイメージだけを伝え、杜氏のやり方には口を出さないのが決まりでした。つまり、杜氏に逃げられることは、会社の存続の道を断たれたことに等しいのです。
それでも、桜井氏は旭酒造の経営をあきらめませんでした。杜氏が去った数日後には「酒造を杜氏に任せる制度はやめ、これからは自分でやる」と決め、そこから毎日、発酵状態のデータを取り、分析を行い、試行錯誤する日々を送りました。それまでの酒造が、熟練した杜氏の経験則に基づく感覚的なものから、徹底したデータに基づく科学的な製造法へと転換させることにしたのです。
はじめは「数字を記録する」という地道な作業を繰り返すばかりでしたが、やがて杜氏の「手抜き」に気付けるほどにデータが積み上がり、最高の品質を安定して生み出せる方法にたどり着きました。取得したデータが元になり、徹底管理の上での、オフシーズンなしの大量生産が可能になったのです。
しかし同時に、データや機械だけではできないことがあることも判明しました。… 続きを読む