Bizコンパス

城よりも庶民を優先した心優しき中間管理職・保科正之
2019.04.26

日本を支えた“中間管理職”の苦悩第37回

城よりも庶民を優先した心優しき中間管理職・保科正之

著者 かみゆ歴史編集部

 今年3月8日、安倍内閣は「復興庁」の後継組織の設置を決定した。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災からの復興を役割とする復興庁は、10年間の期間限定で設置されており、2021年3月31日に廃止となる。ところが現状では、復興の完了に目途が立っていないため、復興庁を継承する組織が設けられることとなった。

 新組織には、災害対応を専門とする「防災省」設置案もあるが、政府は「平時から大組織を設ける必要はない」と判断しており、後継組織は首相をトップとする臨時体制になりそうだ。

 確かにいつ起きるかわからない事態を常に警戒する行政組織の新設は、難しい面もあるだろう。しかし災害大国・日本において、緊急時の対策対応は不可欠である。さらにこれを企業や組織に当てはめるなら、災害だけでなく取引先の倒産やテロによる経済の混乱など、リスクマネジメントが重要な場面は数多い。しかし、いつ起きるかわからないからこそ、とかく後回しにされてしまいがちな分野でもある。

 このような不測のリスクに正面から立ち向かい、備えと即時対応の両面から成果を上げたのが、江戸幕府3代将軍・徳川家光とその嫡男で4代将軍・徳川家綱を補佐した、保科正之(ほしなまさゆき)だ。一般的に江戸幕府の体制を盤石にしたのは家光といわれるが、実は正之の貢献も大きい。長きに渡る江戸幕府の天下泰平を築いた真の立役者といえる、不世出の中間管理職なのだ。

 

二代将軍・秀忠の息子なのに冷遇された理由

 正之は父が家光と同じ2代将軍・徳川秀忠で、家光の異母弟である。保科家の養子となって保科姓を名乗ったが、そこには複雑な事情があった。というのも、正之は秀忠の不倫の末にできた子どもなのである。正之の母は秀忠の乳母の侍女で、静(しず)という。秀忠の“お手付き”により正之を授かった静は、秀忠の正室で家光の母である崇源院(江)に遠慮し、秀忠の側室にはならずに退職した。

 こうして秀忠の非嫡出子として誕生した正之は、7歳の時に徳川家と婚姻関係の血筋にある高遠藩(現・長野県伊那市)主・保科正光の養子となり、21歳で藩主を継ぐ。その翌年、秀忠は正之と一度も対面しないまま世を去った。秀忠と正之が会わなかったのは、正之を認知すれば世間の動揺を呼び、後継者問題の火種にもなりかねないという、秀忠の政治的判断によるものと考えられる。

 だが、秀忠の息子同士は対面した。家光が母違いの弟の存在を知った時期ははっきりしないが、正之24歳の頃には会っていたようだ。正之と向き合った家光は、不遇の身ながら恨み言もなく謙虚に振る舞う姿に感じ入り、正之が33歳の時に、奥州(現・東北地方太平洋側)の抑えの要地・会津藩(現・福島県会津地方)主に取り立てた。高遠藩主時代から約8倍もの昇給であり、家光の期待と信頼がうかがえる。さらに家光は、家綱の成人の儀式である元服式でも、正之を烏帽子親という「第二の父」役に抜擢している。

 生来病弱だった家光は、家綱の後事を正之に託して48歳で他界した。この時、家綱は元服済みとはいえまだ11歳。正之は将軍後見役として、幕政を導くこととなる。

 

江戸時代に年金制度をスタート

 以上の経歴から、正之のキャリアは「会津藩主」と「将軍後見人」に大別できる。まず、会津藩主としての正之はどのような施策を行ったのだろうか。

 正之が藩主に着任した当時の会津藩は、お家騒動などで統治者の変更が相次いだため、政情が混乱していた。さらに、飢饉が続いたこともあって、多くの農民が逃亡してしまっていた。そこで正之は、… 続きを読む… 続きを読む

続きを読むには会員登録が必要です

かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

関連キーワード

SHARE