ビジネスの現場では、業務提携や買収などの重要な交渉に臨む人材のことを、「交渉人」と呼ぶことが多い。交渉が成功すれば協力関係が築けるが、失敗すれば両者の関係にヒビが入ることになる。中には、こちら側が提示する条件が無謀すぎて、交渉成立の見込みが非常に薄いにも関わらず、交渉人として出向くよう上司から命じられてしまうケースもある。

 まさにこのケースで困難な大仕事に挑んだのが、戦国大名・小西行長(こにしゆきなが)である。豊臣秀吉の交渉人として活躍した行長は、天下統一後の秀吉が打ち出した「唐入り」という、成功の見込みがほとんど薄い、無謀な中国進出プロジェクトの交渉人に駆り出された。何とか上司の期待に応えようとする行長だが、努力すれば努力するほど、泥沼にハマっていってしまった。

 

軍師・黒田官兵衛に学んだ交渉術

 行長が秀吉に仕官するまでの事績は詳しくわかっていないが、堺(現・大阪府堺市)で薬種問屋を営む豪商・小西隆佐(りゅうさ)の次男として生まれたのは確かなようである。父がキリシタンだったことから、行長も幼少期に受洗して、神学者アウグスティヌスにちなんだアウグスチノの洗礼名を得たという。

 隆佐は戦国の世において武家とのつながりを重視したらしく、自らは備前(現・岡山県)の戦国大名・宇喜多直家の御用商人となり、行長が宇喜多家の家臣になれるよう手を尽くした。この頃、天下統一を目ざす織田信長が中国地方攻略に乗り出し、秀吉をリーダーに任命して進軍してきたため、小西父子は秀吉と直家の講和を仲介する。結果として直家は信長に臣従し、小西父子は自分たちの気遣いや手際を高く評価してくれた秀吉を新たな主君とした。

 こうして秀吉に出仕した行長は、信長が本能寺の変に倒れると、その事業を引き継いだ秀吉の天下統一を補佐することとなる。行長のポストは、海軍の司令官である「舟奉行」。主な役目は、合戦時の海軍指揮だが、当時は海運が物流の大動脈であるため、兵糧や兵士の補給路の確保も重要な仕事だった。

 交渉術の腕前はこの時期に磨いた。四国平定戦の四国攻めでは秀吉腹心の軍師・黒田官兵衛の補佐官となり、交渉相手と渡り合う技術を学ぶ。さらに九州平定戦の九州攻めでは自らが交渉役となり、有馬晴信や大村純忠などの九州の大名を秀吉側へと取り込んだ。交渉人としての才覚は、この頃すでに現れていたのである。

 

なぜ小西行長は加藤清正と仲が悪かったのか?

 九州攻めが秀吉の勝利に終わると、行長は宇土(現・熊本県宇土市)を中心とする肥後(現・熊本県)の南部地域を与えられ、収入は20倍以上に増えた。破格の厚遇だが、時を同じくしてほぼ同等の待遇を受けた同僚が、隣接する肥後の北部地域に着任する。加藤清正である。

 交渉や補給を得意とする行長に対し、清正は武芸に優れ、築城術や武器の量産など実戦的な分野を得意とする。さらに清正は、少年期から秀吉に仕えて武士の教育を受けたため、商家出身の行長を侮るところがあった。このように水と油の二人が、隣同士に配属された人事はもちろん偶然ではない。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

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歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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