ファーストリテイリングや楽天などの大手企業で、英語を社内公用語とする動きが活発になっている。2020年には本田技研も英語公用語化を導入する予定だ。

 バブル期は日本国内で充分に経済が回っていたため、英語力が必要な企業は外資系などに限定されていた。しかし消費の冷え込みと人口減少で縮小を続ける現在の日本市場は、海外に活路を見出すほかない。どの企業も海外と接点を持つ可能性があり、英語力の必要性は格段に増している。

 細かい状況は異なるが、幕末の日本も急速に英語力が求められた時代だった。日本は江戸時代を通じて海外との交流を制限する鎖国政策を取ってきたため、アメリカの開国要求を認めて国交を持つとはじめて、英語力のある人材が必要になったのである。

 この時流の中で、中浜万次郎(ジョン万次郎)主宰の英語塾に通ったのが、幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)だ。武揚はこれ以前にも江戸幕府直轄の学問所・昌平坂学問所で英語を学んだが、成績はぱっとしなかったらしい。それでも、アメリカ暮らしの経験がある万次郎のもとで再び英語を学んだのは、これから必要だと感じていたからだろう。

 武揚のこのような向学心とチャレンジ精神が、のちに自身のキャリアと人生を切り開くこととなる。

 

あらゆる教養を身につけたスキルフルな幕臣

 江戸下谷(現・東京都台東区)にて幕臣・榎本武規の次男として誕生した武揚は、12歳から18歳まで、幕府直轄の学校「昌平坂学問所」に通った。17歳のときには一時休学し、蝦夷(現・北海道)を管理する箱館奉行・堀利煕(ほりとしひろ)の従者として、蝦夷と樺太島の視察に参加している。

 武揚が学問所を卒業した年に、アメリカの黒船が来航し、日本は開国。海外の脅威に危機感を抱いた幕府は、海軍増強のため長崎海軍伝習所を設立する。武揚はこの伝習所に入学し、航海術や蒸気機関学のほか、数学や化学まで幅広い教養を身につけた。

 伝習所での武揚は、講師から高評価を得ている。講義では実物の蒸気船を使用しており、武揚は学問所での座学よりも実践的な学習方法が肌に合ったのかもしれない。こののち、伝習所の後継機関となる築地軍艦操練所が設立されると、武揚は教授として迎えられた。万次郎の英語塾に通ったのはこの頃といわれる。

 操練所で一定の人材が育つと、幕府はリーダーシップを取れる海軍士官の必要性を感じ、優れた幕臣に海外留学の機会を与えた。武揚はこの選ばれし幕臣のひとりとして、27歳でオランダに留学。4年間で海軍技術はもちろん、フランス語やロシア語を習得し、国際法まで貪欲に学んだ。

 

なぜ北海道に「亡命政府」を作ったのか

 最新のスキルと知識を身につけた武揚は、幕府の即戦力となる「はず」だった。というのも、武揚が帰国した半年後に、幕府は大政奉還で政治権力を失い、さらに2か月後には王政復古の大号令で完全廃止されたのである。

 江戸幕府のトップで、武揚の上司である15代将軍・徳川慶喜はこれに抗議するため、戊辰戦争緒戦となる鳥羽・伏見の戦いを起こしたが敗北。以降は謹慎し、新たな政権である明治新政府に恭順する。

 武揚はこの慶喜の決断に反発した。自らが艦長を務めるオランダ製軍艦・開陽丸に乗り込み、江戸湾を出港して蝦夷を目ざす。蝦夷を統治する松前藩は新政府側についたため、これを降して箱館(現・北海道函館市)の五稜郭を占拠し、蝦夷共和国という「亡命政府」を樹立した。亡命政府とは、政治から追放された元政権メンバーが亡命して結成する政府組織である。日本ではなじみが薄いが海外では珍しくなく、留学経験のある武揚はすぐに思いついたようだ。

 ではなぜ武揚は、蝦夷に亡命政府をつくろうと考えたのか。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

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歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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