日本にはユネスコが定める世界遺産が21件ある。明治期の急速な産業化を象徴する「明治日本の産業革命遺産」もその1つで、長崎県の軍艦島(端島炭鉱)や福岡県の三井三池炭鉱・八幡製鐵所も、同遺産群に含まれる。
この遺産群の中で、唯一静岡県に位置するのが「韮山反射炉」だ。幕末に大砲を鋳造した金属融解炉で、日本の近代化を語る際に欠かせない存在だが、この建造の指揮を執ったのが幕臣・江川英龍(えがわひでたつ)である。彼は中間管理職の立場ながらも、さまざまな苦労を重ねて、この韮山反射炉を作り上げた。
若き日の自己研鑚の中で、海防の重要性を意識する
江川家は戦国時代から徳川家に仕え、徳川家康が江戸幕府を開くと世襲の代官(だいかん)を任された家柄である。代官とは幕府直轄領を管理する役職で、現在の知事に近い。江川家は伊豆韮山(現・静岡県伊豆の国市)を本拠地としたので「韮山代官」と呼ばれたが、実際には東海から関東地方までの広範囲を管轄していた。基本的に代官は異動が多く、世襲も珍しかったため、幕府の江川家に対する厚い信頼がわかる。
英龍はそんな江川家に生まれたが、次男だったため家督継承権がなく、家の将来を気にせず育った。好奇心旺盛で絵画や書道、詩など幅広く学び、江戸の道場・撃剣館(げきけんかん)に入門して剣術にも励んだ。
撃剣館には田原(現・愛知県渥美半島)藩重臣・渡辺崋山(わたなべかざん)や、維新三傑のひとりとなる桂小五郎(木戸孝允)など、海外情勢に詳しい面々が在籍しており、日本がいかに海外諸国より遅れているかを日夜議論していた。英龍はこれに影響を受け、若くして海防政策の重要性を意識するようになる。三方を太平洋で囲まれた伊豆にとって、諸外国の脅威は現実的な問題なのだ。
英龍は兄を補佐して韮山を守ろうと考えた。ところが21歳のときに兄が他界。35歳で父の跡を継いで韮山代官となり、自ら海防強化に乗り出すこととなる。
黒船来航以前から幕府に海防強化を説くが……
一般的に幕末維新は、アメリカのペリー提督率いる黒船艦隊の来航からはじまるとされる。しかし外国船は黒船以前から日本近海に何隻も出没しており、この時点ですでに危機感を抱いている大名や志士が存在した。英龍もそのひとりである。
伊豆は幕府の本拠地・江戸まで海路を利用すれば半日で到着できる位置にあり、江戸防衛の要所だった。英龍はこの点も踏まえ「伊豆の海防を固めなければ江戸にも海外諸国の脅威が及ぶ」として、幕府に対し、伊豆周辺への砲台の設置や大砲製造技術の改良を進言する建議書を提出する。これは黒船来航の16年も前であり、英龍の鋭い先見性がうかがえる。しかし、時代を先取りしすぎたためか、幕府の重臣はまったく危機感を抱かず、英龍が再三同様の提案を行っても反応は薄かった。
そこで英龍は、… 続きを読む