産経新聞社論説委員・河合雅司の著書『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』(講談社現代新書)が書店の新書ランキングやネットショップのジャンルランキングで軒並み売上一位を獲得している。本書は「2018年に国立大学が倒産危機」、「2040年に自治体の半数が消滅危機」など、人口減少の一途をたどる日本の危機を具体的に指摘して注目を集めた。
一方で厚生労働省発表による子どもの貧困率はいまだに13.9%もあり、子育て世代の低所得が社会問題になっている。人口が減少していても出生率の増加は難しく、若年層の所得を上げるための働き方改革も有効に機能していない。
この現状を打開できる政治家が現在の日本にいるかは定かでないが、江戸時代にこれと似た状況を克服した政治家は存在した。幕府ナンバー2である老中を務めた松平定信である。
一般的に定信は、厳格すぎて融通がきかない政治家といわれることが多い。しかしそれは、定信の一面しか見ていない。定信の政治手腕を理解するには、老中就任以前から見てゆく必要がある。
「次期将軍」と期待されながらも地方行政官に
定信は徳川御三卿のひとつ・田安(たやす)徳川家の出身である。御三卿は田安・一橋・清水の3家で、江戸幕府8代将軍・吉宗と9代将軍・家重の分家筋。徳川本家の後継者が絶えた場合、将軍就任を許される家格だった。定信の父・宗武(むねたけ)は吉宗の次男で、定信は吉宗の孫に当たる。
宗武は高名な国学者・賀茂真淵(かものまぶち)に師事する勉強家で、定信も父同様に学問を好み、聡明な少年に育った。10代将軍・家治は「将来、定信が徳川家を栄えさせてくれる」と絶賛し、幕臣たちは「定信が次期将軍」とささやきあうほどだった。
ところが定信は、17歳のときに幕府の命令で、白河藩(現・福島県白河市)主・松平定邦の養子となり、26歳で藩主を継ぐ。もちろん藩主の地位は名誉だが、定信は中央政権のトップに立つ資格を奪われ、地方行政官に甘んじたことになる。この裏には、当時の老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)の思惑があったといわれる。意次は懇意にしている一橋家の家斉を次期将軍にと考えており、ライバル候補の定信を遠ざけたというのだ。そして、11代将軍には家斉が就任した。
しかし定信は自身の巡り合わせに不満を言わず、藩主の職務と真剣に向き合った。
現代にも通用する政策で藩を立て直す
定信が白河藩主となった当時は、浅間山が大噴火を起こした直後だった。広範囲に渡る降灰で農作物は大ダメージを受け、冷夏も重なって東北地方一帯は大規模な飢饉に襲われていた。
そこで定信は、白河藩が補助的に所領している越後(現・新潟県)の分領地から米を取り寄せ、さらに近畿地方の米を買い付けて白河藩に回した。この結果、白河藩の餓死者はゼロ。大災害の際、被災地外部から救援物資を回すことは現代の常識だが、定信はそれを江戸時代に実践したのだ。
そして、飢饉の直接被害を脱した後は食料の備蓄を目指す。しかし、白河藩の農村には食料を生産するための労働力が不足していた。根本の問題は少子化で、解決するには農民の貧困を救済する必要があった。
そこで定信が問題視したのは「間引き」である。間引きとは… 続きを読む