父とともに本能寺の変で散る
徳川家康が開いた江戸幕府は約260年も続いた一方、豊臣家の天下は秀吉と秀頼の2代で終わってしまいました。ここまで差が出た大きな理由は、家康が徳川家の支配系統を整えて後継者・秀忠に譲り、その地盤が代々受け継がれたのに対し、秀吉は後継者・秀頼のサポート体制を万全にしないまま世を去ったからです。
それでは、三大天下人として家康・秀吉と並び称される織田信長は後継者の支配体制を確立できたかというと、残念ながら否です。織田家の影響力は信長死後すぐに失われました。しかし、これにはやむを得ない事情があるのです。
広く知られているように、信長は本能寺の変で家臣・明智光秀の謀反に遭い、49歳で自刃しました。ここで悔やまれるのは、信長の嫡男・信忠が26歳の若さでともに自刃したことです。当主と後継者を同時に失った織田家は残された次男・信雄と三男・信孝が家督を奪い合い、結局はこの跡目争いを踏み台にした秀吉に天下を横取りされました。
本能寺の変当時、信忠は信長から織田家の家督を譲られていたものの、まだ後継者としてトレーニング中の身でした。このため信長と重なる事績が多く、あまり高く評価されません。むしろ、信長の偉業が目立ちすぎて存在すら論じられないことがほとんどです。
しかし、ほかでもない信長が信忠を信頼し、後継者として特別扱いをしていました。そして信忠も、ポスト信長として才気の片鱗を見せていたのです。
期待を寄せた信長とそれに応えた信忠
信長は早い時期から信忠を後継者にすると決めていたようです。その考えは信雄が伊勢(現在の三重県東部)の北畠家、信孝が伊賀(現在の三重県伊賀地方)の神戸家へと、ともに10代で養子に出されていることからうかがえます。弟たちに他家を継がせて、織田家を継ぐのは信忠だと周囲に示したのです。かつて弟・信行と家督を争った信長は、息子たちに同じような苦しい経験をさせたくなかったのでしょう。
しかし能力主義を徹底した信長なら、無能なものは息子でもすぐ見切りをつけたはずです。その点、信忠は… 続きを読む