歴史には、主君から寵愛を受けていた部下が寝返ったり、同盟関係にあった相手に戦を仕掛けるなど、「裏切り者」の汚名を受けた人物がいる。結果的にその裏切りが、歴史を大きく変えたケースもある。

 しかし、それらが「裏切り」とみなされるのは、あくまでも現代から見ただけの話。裏切った側の目線に立てば、実はそれは裏切りではなく、ただ単にそうせざるを得なかったり、結果的に裏切ったように見られてしまっただけの可能性もある。

 なぜ人間は「裏切り」をしてしまうのか? そして、その裏切りによって、状況はどのように変わったのか? ビジネスパーソンが裏切られないため、そして、あわよくば“裏切る”時のための参考になるよう、歴史に残る「裏切り」の全容を明らかにする。

 今回取り上げるのは、摂津国(現在の大阪府西部から兵庫県の一部)の土豪(その土地の豪族)から戦国武将に成り上がった荒木村重である。織田信長に仕えた村重は多くの戦功を挙げ、信長の天下統一事業を支えたが、最終的に信長を裏切るという道を選んだ。

 村重は、なぜ上司である信長に逆らったのか。そして、その裏切りの結果、どんな道を歩んだのか。


会社に貢献する部下、対価を払う上司

 村重は摂津国の土豪から成りあがった戦国武将で、はじめは摂津国の有力国人(こくじん、土着の武士)・池田家に仕えていた。そこで頭角を現し、池田家の重臣となる。

 1568年(永禄11)に織田信長が入京すると、池田家は信長に臣従することになり、村重も間接的にではあるが、信長の麾下(きか、指揮下のこと)に入った。信長と三好家が対立した際には、信長軍の一員として出陣し、桂川の戦いで三好軍を破る戦功を挙げた。

 1573年(天正1)、信長が室町幕府将軍・足利義昭と対立すると、当主の池田知正は信長を裏切って、義昭側についた。しかし、信長の力を買っていた村重は、知正の裏切りをさらに裏切り、池田家を乗っ取るかたちで、信長の直属の家臣となった。

 その後の村重の勢いは凄まじかった。義昭討伐の際には敵方のキーマンである三好義継を破る戦功を挙げて信長の評価を得て(若江の戦い)、さらに茨木家・和田家・伊丹家など摂津国の有力国人を次々に攻略して、摂津国内をほぼ統一。信長から摂津支配を任せられるまでに出世した。

 摂津国は、日本一の経済都市であった堺を有する重要な国であるとともに、信長にとっては播磨国(兵庫県南部)・丹波国(京都府中央部と兵庫県東部)・丹後国(京都府北部)攻略のための重要拠点でもあった。そのような国を任せられるほど、村重は信長に重用されていたのである。

 その後も村重は戦功を挙げ、その武勇を信長も評価して、村重はますますのし上がっていった。部下は会社によく貢献し、上司はそれに見合った対価を払う、そんな良い関係が築かれていたはずだった。

 

信頼できる部下が突如ブチギレ。その理由とは

 ところが1578年(天正6)10月、村重は突如として信長に反旗を翻した。

 当時、信長は、対立する宗教勢力である石山本願寺を攻めていた。一方で、中国地方の支配者である毛利家を攻めるため、豊臣秀吉に播磨国を攻撃させており、明智光秀には丹波国・丹後国攻略を行わせていた。これらすべての戦いに、摂津国は重要な拠点として機能していた。

 信長にとって、摂津国を押さえる村重の離反は死活問題であった。信長は村重のもとに何度も武将を派遣して説得にあたったが、村重は承知せず、居城の有岡城に籠城した。

 信長に寵愛され、それなりの待遇を得ていた村重が、なぜこのタイミングで信長を裏切ったのだろうか。その理由はいくつか考えられる。

 まずひとつに、… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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