2018.11.25 Sun

 歴史には、主君から寵愛を受けていた部下が寝返ったり、同盟関係にあった相手に戦を仕掛けるなど、「裏切り者」の汚名を受けた人物がいる。結果的にその裏切りが、歴史を大きく変えたケースもある。

 しかし、それらが「裏切り」とみなされるのは、あくまでも現代から見ただけの話。裏切った側の目線に立てば、実はそれは裏切りではなく、ただ単にそうせざるを得なかったり、結果的に裏切ったように見られてしまっただけの可能性もある。

 なぜ人間は「裏切り」をしてしまうのか? そして、その裏切りによって、状況はどのように変わったのか?ビジネスパーソンが裏切られないため、そして、あわよくば“裏切る”時のための参考になるよう、歴史に残る「裏切り」の全容を明らかにする。

 初回で取り上げるのは、大和国(奈良県)の戦国武将・松永久秀である。彼は織田信長などの為政者に仕えた優秀な中間管理職だったが、なんと3回も上司(主君)を裏切った。一体、何が彼をそうさせたのだろうか?

 

なぜ「家臣の家臣」という低い身分ながら京都を掌握したのか

 久秀の前半生は謎が多く、畿内の土豪出身とする説が有力である。天文年間(1532~1555)初期には、阿波(徳島県)細川家の家臣だった三好家に仕官していたとされる。

 久秀が仕えた頃の三好家は、三好長慶が当主となり、室町幕府管領(将軍に次ぐ役職)の細川晴元に仕えていた。やがて長慶は晴元を追い落として幕府の実権を握る。三好家の家臣として頭角を現していた久秀も、長慶に重用され、出世していった。

 長慶の側近としてその政治的手腕を見てきた久秀は、実力があれば陪臣(家臣のさらに下につく家臣)の身でも権力者になれることを学んでいた。久秀は長慶が死去すると、さっそく行動に移った。長慶死後、三好家を掌握した三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)とともに、1564年(永禄7)、時の将軍・足利義輝を殺害し、自らの息のかかった足利義栄(よしひで)を将軍に据えたのである。

 これが久秀にとって最初の裏切りである。久秀は自らの野望のために、すでに権威は失墜していたとはいえ、室町幕府の将軍を殺害するという前代未聞の大仕事をやってのけた。将軍の家臣の三好家のさらに家臣という低い身分の久秀が、当時の日本の中心である京都を掌握したのだ。

 

窮地の久秀の元に救世主が

 ところが、今度は三好三人衆と久秀との間で権力争いが起こった。

 1567年(永禄10)、三好三人衆は久秀の拠点である大和国に攻め込み、東大寺に布陣した。久秀は三人衆と袂を分かった三好家当主・義継を奉じて東大寺まで兵を進めたが、両軍の戦力は拮抗し、戦線は膠着した。

 対陣から半年後、久秀が動いた。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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