力と力がぶつかり合い、血で血を洗う激闘が繰り広げられた日本の戦国時代は、ビジネスワードで表すなら「レッドオーシャン市場」といえるだろう。
このような競争の激しい時代には、戦闘能力に秀でた「猛将」の武勇伝が多く伝わっている。そこには「競合他社」たる他の戦国大名を出し抜くような発想力やイノベーションがあったに違いない。
本連載では戦国時代をビジネスの世界に見立て、激しい「市場」を勝ち抜いてきた猛将たちの、競合を圧倒的に凌駕する力「コア・コンピタンス」に迫る。
第2回に取り上げる人物は「仙石秀久」。歴史研究者の間では、「勇猛果敢な猛将」と讃える声もあれば、「三国一(世界一)の臆病者」という冷たい評もある。なぜこのような両極端の評価が現代に伝わっているのか。その理由は、彼が犯してしまった大失態にある。
将来の天下人のもとでコツコツと実績を積み上げる
「失敗を恐れずに思い切りやれ」とはよく聞く言葉だ。しかし、程度の差こそあれ、実際に失敗したらどうなるか。上司には怒鳴られ、会社に多少なりとも損害を出し、その後の出世に大きく響く。今日のビジネス社会にはよくある話だ。
戦国時代において主君に激怒され、謹慎させられるほどの大失態を犯した武将は数知れない。そこから這い上がるのは至難の業である。ところが、天下人に見捨てられたのにもかかわらず、見事なV字回復を果たした武将がいる。それが仙石秀久だ。
江戸幕府が編集にあたった系譜『寛政重修諸家譜』によれば、秀久は少年だった頃から豊臣秀吉に仕えていたという。当時の秀吉は尾張国(現在の愛知県西半部)の織田信長の家臣。その後の華々しいキャリアの始まりの時期だ。つまり、秀久は秀吉にとって最古参といえる家臣である。
秀久は秀吉の下で、姉川の戦い(1570年)や、中国攻め(1577年〜)などに従軍。猪突猛進な攻めで、いずれの戦にも勝利し、着実に昇進していった。信長が本能寺の変(1582年)で倒れると、その後を継いだ秀吉は、天下統一に邁進する。秀吉の下で働く秀久には、明るい未来が待ち受けていたはずだった。
しかし、秀久はある失敗がもとで、奈落の底に突き落とされることとなる。
命令無視、職務放棄の原因とは
1586年に行われた、秀吉の天下統一事業のひとつ、九州征伐の時のことである。九州へ渡った秀久の役目は、秀吉の率いる本隊が到着するまで、敵の島津軍を押さえておくことであった。
ところが、味方である大名・大友宗麟の鶴賀城(大分県大分市)が島津軍に取り囲まれ、あわや落城との知らせが入った。目前で味方が苦しんでいるのを見過ごせなかった秀久は、秀吉から待機の指示を出されていたのにもかかわらず、救援のため軍勢を出すことを決意。出撃した秀久らは、戸次川(へつぎがわ)の対岸で陣を張っていた島津軍を見つけ、襲いかかった。
しかし、これは島津軍の罠であった。… 続きを読む