力と力がぶつかり合い、血で血を洗う激闘が繰り広げられた日本の戦国時代は、ビジネスワードで表すなら「レッドオーシャン市場」といえるだろう。

 このような競争の激しい時代には、戦闘能力に秀でた「猛将」の武勇伝が多く伝わっている。そこには「競合他社」たる他の戦国大名を出し抜くような発想力やイノベーションがあったに違いない。

 本連載では戦国時代をビジネスの世界に見立て、激しい「市場」を勝ち抜いてきた猛将たちの、競合を圧倒的に凌駕する力「コア・コンピタンス」に迫る。

 

「守護神」と呼ばれる人の条件とは

 9月26日、プロ野球セ・リーグのペナントレースで広島東洋カープが3年連続の優勝を果たした。9回に登板した抑えの切り札・中崎将太は、何と3年連続胴上げ投手になるという快挙。緒方孝市監督は優勝が決まる前から中崎を胴上げ投手に指名しており、信頼の厚さがうかがわれる。

 現在において「守護神」といえば、このような野球のリリーフ投手や、サッカーのゴールキーパーなど試合の最終局面を守るスポーツ選手を指すことが多い。守護神がいることで、他の選手は安心して自分のプレイに集中できるのだ。

 戦国時代の合戦にも、これと同じことがいえる。背中を預けられる守護神としての名将がいれば兵は安心し、本来の戦力を発揮できる。そんな「戦国の守護神」の代表格が、戦国の最終覇者・徳川家康に仕えた、本多忠勝だろう。

 忠勝は、「蜻蛉切」という、約6メートルもの長さの槍を武器としていた。穂先に止まったトンボが途端に真っ二つに切れたという伝説が名前の由来で、忠勝はこれを片手で振り回したという。

 忠勝は、家康が出陣した合戦のほとんどに付き従い、守りが難しい最後尾の殿(しんがり)軍を担当することもあった。それでいて、全57回の戦場で、一度も傷を負わなかったという、まさに鉄壁の守護神である。

 家康より6歳年下の忠勝は、13歳で初陣を飾った。25歳のときには、家康の領地が「甲斐の虎」の異名を取る武田信玄に脅かされ、一言坂(ひとことざか)の戦いにて殿軍を担当している。その際の鮮やかな戦いぶりを見た武田陣営は、忠勝を「家康に過ぎたるもの」と絶賛した。

 しかし、合戦は個人の力だけで勝利できるものではない。忠勝が守護神になり得た裏には、部下に対する気遣いを重視するところにあった。

 

動揺する部下をやる気にさせたデタラメとハッタリとは

 忠勝が37歳のときに勃発した、小牧長久手の戦いでの逸話から見てみよう。当時の家康は豊臣秀吉と対立しており、約2万7千の兵を率いて小牧山(現・愛知県小牧市)に布陣した。すると秀吉は、約10万の兵でこれを包囲。徳川軍は圧倒的な兵力差に震え上がった。

 しかし忠勝は、部下に向けて、冷静にこう発言した。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

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歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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