幕末に躍動し、徳川幕府の打倒を成し遂げた雄藩の1つが長州藩(現在の山口県)である。だが長州藩は、明治維新を成し遂げるまでに、改易(幕府が藩の領地を没収すること)されかねない状況に何度も陥っていた。

 この窮地を救ったのが、高杉晋作である。長州藩は元々は「尊皇攘夷」(外国人を排斥し、天皇を守る)を掲げていたが、晋作は開国・倒幕路線へ転換し、明治維新へ至る流れを作った、いわば長州藩の“救世主”である。

 そんな晋作だが、江戸幕府の終焉も明治維新も自らの目で見ること無く、その前年の1867年にこの世を去っている。華々しい活躍の裏で、どのような散り際があったのだろうか。

 

「劣っている」と評された男の執念

 幕末志士といえば、坂本龍馬や西郷隆盛のような低身分、いわゆる下級武士たちがその代表格に思われがちだが、高杉晋作は違った。彼は天保10年(1839)、長州藩の名家、高杉家の長男として萩(はぎ=山口県萩市)の城下に生まれている。父・小忠太は藩主・毛利斉元(なりもと)の小姓役(こしょうやく)という重要な役目を務める上級武士。よって生活に一切の不自由がない、お坊ちゃんであった。

 厳しく躾けられはしたが、幼少期はあまり学問をせず、剣術にばかり打ち込んでいたそうだ。ある時、自分の遊んでいた凧(たこ)を大人の武士に踏まれ、その当人に突っかかっていって頭を下げさせたという、負けん気の強さを示す逸話も残る。

 そのように奔放に育った晋作だが、19歳のときに転機が訪れる。吉田松陰の私塾、「松下村塾」への入塾であった。松陰は武士も町民も分け隔てなく受け入れ、生きた学問や軍事を教えることで評判を得ていた。晋作は幼なじみの久坂玄瑞(くさか げんずい)に誘われ、その門を叩いたのである。

 入門して間もなく、松陰から「君は才能はあるが、玄瑞よりは劣っている」と言われた。そこから一念発起し、勉学に没頭。持ち前の負けん気の強さで、晋作と玄瑞は「松下村塾の双璧」とまで呼ばれるようになる。

 その後、江戸に1年間の遊学をして見聞を広めた晋作であったが、安政5年(1859)に師・吉田松陰が老中暗殺を企てた罪で処刑されてしまう。そのとき、萩に帰っていた晋作は師の訃報にショックを受け、また同時に師の志を受け継ぐ覚悟を決める。

「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし」
(死んで名が残るのであれば、いつでも死になさい。生きて大きな事業を成し遂げる見込みがあるなら、いつまでも生きなさい)

 松陰が手紙に遺したこの言葉は、その後の晋作に大きな影響を与え続けるのである。

 

このままでは日本も同じ道を辿ってしまう

 文久2年(1862)、24歳になった晋作は、幕府が募集していた清国・上海への視察に、藩の代表として赴いた。師・松陰は海外を視察すべく密航を行なおうとしていたが、果たせずに終わった。晋作は、藩の意思とはいえ、師が果たせなかった海外視察の機に恵まれたのである。

 上海に渡った晋作は、衝撃的な光景を目にした。それは、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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