幕末志士、散り際の美学(第4回)

佐久間象山/凶刃に倒れた明治維新の予言者

2018.05.25 Fri連載バックナンバー

 2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」で躍動する幕末志士たち。本連載では、そんな彼らの「散り際」を紹介している。今回は、兵学者・思想家として名を馳せ、吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬といった志士たちに多くの影響を与えた佐久間象山(さくま しょうざん)の「散り際」に迫りたい。

 佐久間象山が命を落としたのは元治元年(1864)のこと。京都の鴨川に近く、高瀬川に沿って南北につながる「木屋町通り」で、白昼堂々、刺客に襲われたのだ。

 現在の木屋町通りは京都を代表する歓楽街だが、幕末の頃はさらに賑やかだった。高瀬川には伏見港から京都市街へ木材などの物資を運ぶ高瀬舟が往来し、一般庶民はもちろん、豪商や志士の多くもこの道を闊歩していた。なぜ、彼はそのような場所で、最期を遂げなくてはならなかったのだろうか……。

 

名門・佐久間家に生まれた天才

 佐久間象山は、松代藩士・佐久間一学(いちがく)の長男として信濃(長野県)に生まれた。松代藩とは、戦国時代に武威を轟かせた真田信之を祖とする信濃真田家である。そうした家柄に加え、時の藩主・真田幸貫(ゆきつら)は、徳川8代将軍・吉宗の曾孫として生まれ、真田家に養子入りした人で、外様大名でありながら幕府老中も務めるというVIPだった。

 佐久間家は、そんな松代真田家の重臣であり、一学は佐久間家の養子の身ながら、易学者として大成、剣術道場の経営にもあたる有能な人であった。象山はその父に厳しく育てられ、詩文や経書に励み、学を身につけた。生まれつき身体が大きく、当時としてはかなりの長身(約175㎝)。筋骨逞しく、面長の顔に大きな瞳を炯炯(けいけい)と輝かせるという特異な風貌のおかげもあり、藩内でも一目置かれるようになった。

 その反面、自信過剰で傲慢な性格の持ち主でもあった。はっきりとものを言う象山は、藩内にも敵が多く、ある時は藩主の幸貫に注意を受けても、自らの誤りを認めないこともあるなど、毀誉褒貶を顧みなかったのだ。

 やがて江戸へ出ると、儒学者・佐藤一斎のもとで学び、天保10年(1839年)には神田で私塾「象山書院」を開く。名門・松代藩の学者としてすでに象山の名声は世に知られており、吉田松陰・小林虎三郎・勝海舟・橋本左内など、幕末に一名を成す若者たちが、こぞって教えを請いに来た。

 その後、幸貫が幕府の海防掛(かいぼうがかり)という要職に就くと、象山はその顧問に任じられる。西洋学や洋式兵学の猛勉強に取り組んで、その第一人者と目されるにいたった。

 

象山が思い描いた「開国、そのあと攘夷」の思想とは

 嘉永4年(1851)、象山は木挽町(東京都中央区)に「五月塾」を開く。象山書院では儒学を教えたが、五月塾で教えたのは西洋式の砲術・兵学などである。ここにも勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬といった人物が入門し、象山は彼らにさまざまな知識を植え付け、後進を育てた。福澤諭吉も孫弟子のひとりで、象山が所蔵する書を読むなど大いに影響を受けたという。

 その2年後、ペリーが日本に来航し、江戸幕府は限定的ながら「開国」を決断。このとき、幕府は下田・箱館に続いて、横浜や兵庫などを開港したが、その横浜開港を幕府に勧めたのが、誰あろう象山だった。

 当時、世論は開国か、外国を打ち払う攘夷(じょうい)かで揺れており、幕府の政策に対する反発から攘夷論者の勢いが盛んであった。開国論者であった象山は、そうした攘夷論者から「外国かぶれの腑抜け」「排除すべき存在」と見なされるようになる。

 しかし、象山は単なる開国論者ではなかった。象山が考えていたのは、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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