2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」では、幕末維新の動乱の時代を駆け抜け、若き命を散らした志士たちの生き様が描かれる。彼らの燃えるような生涯は、100年以上も過ぎた私たち現代人の心を捉えてやまない。本連載では、そんな幕末の志士一人ひとりの「散り際」のドラマを紹介する。

 初回は、大河ドラマの主人公である薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の西郷隆盛を取り上げる。敵対していた長州藩(現在の山口県)と手を組み(薩長同盟)、江戸城無血開城を成し遂げるなど、戊辰戦争を主導。明治新政府でも参議、陸軍大将を務めた維新の立役者である。しかし、やがて明治政府を離れ、西南戦争のリーダーとして新政府に反抗。壮絶な死を遂げた。

 なぜ西郷は、自らが作り上げたともいえる新政府に刃向かったのだろうか? 彼の“散り際”からその答えを探ってみたい。

 

「あなたが死ねば、この戦争は終わる」

 明治10年(1877)9月23日、夜。自らが生まれ育った鹿児島・城山の洞窟に立て籠もる西郷隆盛は、将兵を招いて決別の宴を催した。9月1日から続いていた籠城も、もはや限界に近い。味方が数百人にまで減少し、対する敵軍(新政府軍)は5万。「日本最後の内戦」と呼ばれる西南戦争も、終結に向けてのカウントダウンが、静かに始まっていた。

 その2日前、一通の手紙が、西郷のもとに届いていた。

 「願わくはあなたが自ら考えをめぐらして、一つにはこの度の挙兵は、貴方の気持ちでない事を明かし、一つには彼我の死傷者を明日に救うべく謀ってください。あなたが其れを謀れば、兵士もまた納得し戦いをやめるでありましょう」

 新政府軍の総大将・山縣有朋からのものだった。山縣は「あなたひとりが自決すれば、この戦争は終わる」と、西郷に自決を懇願してきたのである。

 だが、西郷は動かなかった。そう簡単に割り切れる戦いではなかったのである。

 

維新の立役者が「反政府」のリーダーになった理由は?

 西南戦争からさかのぼること4年前の明治6年(1873)、西郷は外交方針を巡り、新政府首脳陣の大久保利通と対立。西郷は意見が却下されたことに憤慨し、政界を去った。その後は鹿児島に帰り、「私学校」という士族(旧武士)向けの学校を創設、若手の教育に力を注いだ。士族の若者らが政府に反乱を起こさないよう、エネルギーを内へそらそうとしたといわれている。

 当時の士族の多くは、新政府による急激な洋化政策に不満を抱いていた。政府は江戸時代の身分階級を廃止し、かつて武士に与えられていた「帯刀」「俸禄の支給」といった特権を奪った。「武士の世」を終わらせようと躍起になっていたのである。

 やがて、各地で士族による内戦が発生。明治7年(1874)に佐賀県で「佐賀の乱」が起きると、明治9年(1876)には「神風連の乱(熊本)」「秋月の乱(福岡)」「萩の乱(山口)」も発生。そして、新政府に反感を抱く者らが「反政府」の大物・西郷のもとに集結。鹿児島は旧士族・反政府運動の拠点となっていったのだ。

 新政府内でも「次は西郷が蜂起するのでは」との噂が立っていた。「政府は西郷暗殺を企んでいる」との噂も飛び交い始め、それが鹿児島にも伝わった。緊張は日に日に高まり、いつ戦争が起きてもおかしくない状態となった。

 明治10年2月15日、西郷はついに決起した。新政府に対し、旧士族を代表して武力蜂起し、やがては東京へと攻めのぼらんと気勢を上げる。そして、その足がかりとして熊本城を制圧するため、鹿児島を出発した。これが西南戦争の始まりである。

 西郷の動きに対し、新政府軍は用意周到だった。全国に張り巡らした連絡網を使って西郷軍の挙兵を察知し、大軍勢を整えて討伐軍を熊本へ派遣する。結果、西郷たちは「難攻不落」といわれた熊本城の奪取に失敗。その後も敗戦を続け、「最後の砦」ともいえる鹿児島の城山に追い込まれたのである。

 

「もう、ここでよかろう」の真意とは

 西南戦争、「最後の一日」となった9月24日午前4時。夜明けを待たずして新政府軍の砲撃が始まった。西郷は将士40余名を洞窟前に整列させた。そこには… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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