9月21日の横浜DeNA戦で3対2で勝利した読売巨人軍は、セ・リーグでの優勝を決めた。シーズン3位に終わった昨年から一転、見事に5年ぶり37度目の栄冠に輝いた。
好成績を収めた背景には、4年ぶりに現場復帰した原辰徳監督の手腕によるところが大きい。その原が監督として影響を受けた指導者の一人が、父の貢(みつぐ・2014年に死去)だ。原監督が父から教わった「勝つための鉄則」を、過去のエピソードからひも解いていく。

なぜ原辰徳は菅野智之に厳しく接するのか
原貢氏は、アマチュア球界の名将として知られている。福岡県の三池工業高校を1965年夏の甲子園で初優勝に導き、翌年から無名校だった神奈川県の東海大相模高校の監督に就任。70年の夏に同校を初優勝に導くなど、甲子園通算17勝を挙げた。その後、東海大野球部の監督となり、首都大学リーグ7連覇を達成した。
58年に福岡県大牟田市で生まれた原も、貢とともに神奈川へ転居。74年4月、貢が指導する東海大相模の野球部へ入部する。その直前、原は貢とこんな約束を交わした。
「他の選手と五分五分の力だったら、お前は補欠だ。お前が6で他が4でも、オレはお前を補欠にするだろう。お前が7の力を蓄えて、初めてオレはどうするか考える」
つまり貢は、「息子だから」という理由でえこひいきする気など一切なく、それどころか、より厳しく接することを、原に通告したのである。
原は父の言葉に臆することなく、「大丈夫だよ」と返したが、実際に入学すると想像を絶するものだった。
原は三塁手だったが、内野ノックの練習の際、「もっと前に来い!」と父である監督に怒鳴られると、なんとホームから5メートル先のところで思い切りノックされたのだ。それだけではない。「グローブをはずせ!」と言われ、素手で硬球を捕るハメになった。原の体のあちこちにボールが当たり、しまいには記憶まで吹き飛んでしまい、気がついたときにはベンチで横に寝かされていた。
入学当初は親子ということに懐疑的に見ていた先輩や同級生たちも、あまりの厳しさに、「監督、お前のオヤジなんだよな。考えられないよ」と同情される始末。「お前はいいよな。オヤジが監督で」などと、ひがみの言葉を浴びたことは、高校3年間で一度もなかった。
だが、これによって「チームの和」を保つことができた。「実の息子にあそこまで厳しくやっているんだから、オレたちが練習で手を抜くわけにはいけない」という緊張感がチームに好影響をもたらしたのだ。身内であるからこそ厳しく接した結果、原は貢の指導の下で74年夏、75年春夏、76年夏と、全国最大の激戦区である神奈川県大会を勝ち抜き、4度の甲子園に出場。75年春は「4番・三塁手」として同校を準優勝に導いた。

この貢の厳しい姿勢は、現在の原の指導法にも引き継がれている。… 続きを読む