「平石って誰だ?」
前年に低迷したプロ野球チームが停滞感を打破し、上位へ進出するためには、2つの方法を同時に行わなければならない。1つは、大物選手を補強してチーム力の向上を図ること。もう1つは、キャプテンシーの強い人材を監督に登用することだ。
昨季のペナントレースで最下位に沈んだ楽天ゴールデンイーグルスは、今季、まさにこの2つのミッションを実行し、チームの強化につなげた。補強面ではフリーエージェントで西武ライオンズの浅村栄斗を獲得。指揮官には、前年から監督代行を務めていた平石洋介を、正式に監督に据えた。
プロ野球のことをよく知らない人からすれば、「平石って誰だ?」と思われるかもしれない。現役時代、目立った実績を残したわけではないため、世間からそう感じられても不思議ではないだろう。
だが、彼は野球を通じて身につけたスキルによって、監督に選ばれるに値する人材であったことがわかる。
実は“あの試合”の三塁コーチャーだった
平石は1980年に大分県で生まれ、中学のときに大阪へ移り住んだ。中学時代は桑田真澄(元読売ジャイアンツ)を輩出したボーイズリーグの名門・八尾フレンドに所属。3年生のときにはボーイズリーグの日本代表の主将として世界大会に出場し、見事に優勝を果たしている。
高校はPL学園へ進学。同校は甲子園で春3回、夏4回の優勝を経験し、87年には史上4校目となる春夏連覇も達成している。群雄割拠の大阪府において、当時のPL学園は、「甲子園にもっとも近い高校」と言われていた。「将来はプロに進みたい」という目標を持っていた平石自身、レベルの高い仲間と切磋琢磨しながら己の技術を磨いていきたかったはずだ。
だが、高校進学後に思いもよらぬ困難が待ち受けていた。レギュラーまであとわずか、という段階まで来ていた2年の春、左肩を手術。疲労の蓄積と、肩に負担のかかるスローイングフォームが原因だった。
医者の診断は全治6ヵ月だったが、実際はボールを投げるどころか、握れるようになるまで6ヵ月も要し、残りの高校野球人生はリハビリの期間に充てられた。3年の夏、準々決勝で松坂大輔(中日ドラゴンズ)擁する横浜高校と対戦し、延長17回を戦った末に敗れたときには、三塁コーチャーが彼の定位置だった。中学時代、日本代表のキャプテンだったのが一転して、高校では控えのコーチャーでいたことは、彼自身、忸怩たる思いがあったに違いない。結局、高校卒業後のプロ入りは叶わなかった。
同志社大学に進学し、同野球部に入ると、平石の才能が再び開花する。練習から普段の生活まで厳しく管理された高校とは違い、大学では選手の自主性に任せた練習方法だった。初めは戸惑いを見せた平石だが、ケガで高校時代にできなかったことをとことんやっておこうと、どん欲に練習に取り組んだ。その結果、1年の春からレギュラーを掴んだ。4年間で優勝や個人タイトルを手中に収めることはできなかったものの、関西の大学野球を代表するスター選手になった。
大学卒業後は社会人野球のトヨタ自動車に入社。肩のケガは完全には癒えておらず、「肩を万全にして、縁があればプロへ進もう」と考え、2004年のドラフトで楽天から7位指名を受け、念願のプロ野球選手へとなった。
しかし平石は、レギュラーポジションを獲得できなかった。プロ7年間で122試合に出場し、打率2割1分5厘、37安打、1本塁打、10打点、4盗塁。決して一流選手と呼べない成績で、思うような結果を残すことができないまま、2011年、ユニフォームを脱いだ。
平石監督が一定の成果を収めている要因とは?
引退後、平石は指導者となり、その手腕を存分に発揮する。引退した翌年には育成コーチに就任。2012年2月には二軍外野守備走塁コーチ、2014年からは一軍打撃コーチ、2015年秋には二軍監督。2018年からは一軍ヘッドコーチ兼打撃コーチとなったが、梨田昌孝監督が辞任したため、6月17日から一軍監督代行となり、シーズン終了後に晴れて一軍監督の座に就いた。
プロ野球の世界で監督になるためには、サッカーのようなライセンス制度のようなものはない。その代わりに求められるのは、… 続きを読む… 続きを読む