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非エリートから一流へ、上原浩治を成長させた日々の努力と工夫
2019.06.30

小山宣宏の「勝利の裏にあるもの」第35回

非エリートから一流へ、上原浩治を成長させた日々の努力と工夫

著者 小山宣宏

雑草魂で第一線を走り続けた

 5月20日、読売巨人軍の上原浩治が引退会見を行った。

 上原は98年秋に巨人を逆指名して入団。ルーキーイヤーとなった99年は、20勝4敗、防御率2.09の好成績を収めて最多勝利、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率と投手主要の4部門のタイトルを獲得。さらに新人王、ゴールデングラブ賞、ベストナイン、沢村賞も受賞した。

 その後も巨人のエースとして、4度のリーグ優勝、2度の日本一に貢献。2008年のオフにはフリーエージェントで大学時代から憧れ続けたメジャーに移籍。そして、5年後の13年にボストン・レッドソックスで史上初の日本人初の胴上げ投手となった。

 2018年のシーズン中では、日本人選手初となる日米通算100勝100セーブ100ホールドの「トリプル100」を達成。長年第一線を走り続けてきたからこそ、成しえた偉業だった。

 こう書いていくと、順風満帆の野球人生を送ったように思えるが、プロに入るまでの道のりはとてもエリートとは言えないものだった。座右の銘は「雑草魂」。1999年の流行語大賞に選ばれたこの言葉にこそ、上原の真骨頂が詰まっている。

 

背番号「19」に込める、浪人時代の学び

 1975年に大阪府寝屋川市で生まれた上原は、小学生のときに父が監督を務めるチームで野球を始めた。しかし中学では野球部がなく、陸上部に入部。さらに進学先の東海大仰星高校では野球部にこそ入部するものの、投手ではなく外野手を務めていた。また当時の大阪はPL学園や近大附属、上宮といった強豪校が集っており、上原の在籍していた高校は甲子園とはまったく無縁だった。

 高校時代には「将来は教師になろう」と考え、大阪体育大学への進学を志すことに。しかし、結果は不合格。その後19歳の1年間を浪人生として過ごした。

 浪人生活の間は週3日でスポーツジムに通っていたものの、野球の練習は一切していなかった。大学で野球をやることは思い描いていたが、「プロ野球選手になれる」とは、当時は夢にも思っていなかった。

 だが、上原はそんなプロ野球人生とはほど遠い浪人時代であっても「第一志望の大学に合格する」という目標達成に向かうことで、コツコツ継続することの大切さを学んでいた。

 「1日24時間という、皆に平等に与えられた時間を、どうやってうまく使うべきか」
 「どんな困難な場面に遭遇しても、いかに我慢強く立ち向かうべきか」

 という2つのことを自ら考えて取り組んだことは、後の野球人生に大いに役に立ったと、上原本人も話している。

 「19歳のとき、浪人生として過ごした1年間をこの先も忘れてはならない」

 そういう意味を込め、後のプロ生活では巨人、メジャーのプロ21年間のうち20年間、背番号「19」を背負い続けた。

 

どんな環境でも、工夫次第で人は伸びていく

 浪人生活を送った1年後の1994年。念願が叶って大阪体育大学に合格し、野球部に入部。だが、全国の名門と言われる野球部と違って、とても恵まれた環境とは言い難かった。室内練習場はおろか、野球部専用のグラウンドすらなく、駐車場の空いたスペースでキャッチボールをやることもしばしばあったほどだ。

 指導者はおらず、練習メニューを考えたりノックをしたりするのは学生コーチたち。全体練習は授業の合間の昼休みの30分だけで、練習らしい練習はほとんどできなかった。

 そこで学生たちは自ら練習メニューを作成して、日々の技術向上にあたった。上原がもっとも熱心に取り組んだのは… 続きを読む… 続きを読む

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小山宣宏

小山宣宏

スポーツジャーナリスト

1973年千葉県出身。出版社、編集プロダクション勤務を経て、2007年に独立。近年は高校野球やプロ野球を中心とした取材・原稿が多い。『実は大したことない大リーグ』(江本孟紀/双葉社)、『日本人投手がメジャーで故障する理由』(小宮山悟/双葉社)、『名将の条件』(野村克也/SBクリエイティブ)、『3000安打の向こう側』(松井稼頭央/ベースボール・マガジン社)などの書籍を手掛ける。

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