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「褒める指導」を貫いた小出義雄監督の哲学
2019.05.23

小山宣宏の「勝利の裏にあるもの」第34回

「褒める指導」を貫いた小出義雄監督の哲学

著者 小山宣宏

 2019年4月24日、有森裕子や高橋尚子ら、マラソンのオリンピックメダリストを育てた名伯楽として知られる小出義雄監督が、80歳で逝去した。

 小出は、「叱咤する指導」が当たり前だった時代に、彼は「褒める指導」を実践していた。なぜこのような指導スタイルをとっていたのか、彼の人生を振り返りながら、その理由に迫ってみたい。

2つの夢を持たせた褒め言葉

 小出は1939年4月、千葉県印旛郡根郷村(現佐倉市根郷)に5人の子どものなかで唯一男の子として生まれた。実家は農業を営んでいたため、父から「将来の跡継ぎに」と期待されていたものの、小学校のときにマラソン大会で1位になったことをきっかけに、小出はマラソンの魅力にとりつかれていく。

 中学時代には先生から、「お前は将来、オリンピックに出場できるかもしれないな」と褒められ、ますますマラソンにのめり込んでいった。そうして山武農業高校(現大網高校)の3年生になったときには、高校駅伝の全国大会に出場するまでのランナーに成長した。

 このときに小出は2つの目標を掲げた。

「将来はオリンピックという世界の大舞台で走ること」
「大学で箱根駅伝に出場すること」

 小出はこの目標を実現することを夢見て、「農家の跡継ぎ」という父の願いを拒否。高校を卒業した半年後に実家を飛び出し、陸上部のある企業に所属しながら、大学進学のための費用を稼いでいた。

 そして3年後の61年4月、晴れて順天堂大学に合格。在学中に3度の箱根駅伝の出場を果たし、1つの夢を実現した。

 だが、大学4年のとき、もう1つの夢をあきらめる決断をした。

「オリンピックという世界の大舞台で走ること」を実現させるには、実業団に入るのが近道だ。けれども小出はこの時点で25歳。翌年、大学を卒業するときには26歳になってしまう。当時の実業団で選手として活躍できるのは30歳くらいまで。大学に進学するまで回り道をしていた小出が活躍できる時間は限られている。

「先が見えたような人材は、実業団も会社として採用しづらいはず。それなら、『オリンピックに出たい』と夢見ている子どもたちの手助けをしてあげよう」という思いにいたった小出は、指導者になることを決意。教職を取得して、長生高校、佐倉高校、市立船橋高校と指導者としての実績を積んでいく。市立船橋では86年に全国高校駅伝を制覇し、全国の頂点に立った。

 そして88年の春、リクルートが女子陸上部を設立すると、小出を迎え入れる。小出は足かけ23年間務めた教師の職を辞して、同部の初代の監督となった。

「これからの陸上界は女性の時代がやってくる。あなたに旋風を巻き起こしてほしい」

 リクルートからの要請に、小出が断る理由はなかった。なぜなら高校で陸上を指導していたときから、「女子は男子ほど指導が及んでいない分、伸びしろがある」と感じていたからだ。

 

「叱責」ではなく「褒める」を選んだ理由

 小出は厳しい練習を課す一方、医者や管理栄養士からは運動生理学や栄養学を、さらにメンタル面の安定のために心理学を学ぶなどして、積極的に指導に取り入れた。

 そのうえで、選手を指導するにあたって徹底して行ったのが、「褒める」ことだった。

 実は小出にも血気盛んな時期があり、高校で指導を始めた当初、選手に手を上げたことが2度あった。当時は「叱る=体罰」が当たり前の時代であり、小出自身も、「愛のムチ」だと自分に言い聞かせていた。

 けれども、時間が経つにつれ、… 続きを読む… 続きを読む

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小山宣宏

小山宣宏

スポーツジャーナリスト

1973年千葉県出身。出版社、編集プロダクション勤務を経て、2007年に独立。近年は高校野球やプロ野球を中心とした取材・原稿が多い。『実は大したことない大リーグ』(江本孟紀/双葉社)、『日本人投手がメジャーで故障する理由』(小宮山悟/双葉社)、『名将の条件』(野村克也/SBクリエイティブ)、『3000安打の向こう側』(松井稼頭央/ベースボール・マガジン社)などの書籍を手掛ける。

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