シアトル・マリナーズのイチローは、メジャーでの試合への出場の前提となる40人枠を外れ、会長付特別補佐に就任。今季の残り試合には出場せず、チームを裏方からサポートすることになった。

 来季以降も選手として出場する可能性もあるようだが、これまで27年間続けてきた現役生活には、一旦、ピリオドが打たれることになる。

 大谷翔平が「メジャーリーグを夢見るきっかけになった人」と話すイチローは、なぜ44歳となる現在まで、現役生活を続けることができたのか。その心構えや矜持について、改めて解剖してみたい。

 

「記録以上に大切なもの」を残した

「メジャー18年の間で最も幸せな2ヵ月だった。とにかく毎日球場に来ることがハッピーで、その気持ちをかみしめていた」

 今年の5月3日、シアトルでの記者会見に臨んだイチローは、笑みを浮かべながらこう語った。

 メジャー通算3089安打、日米通算4367安打。この記録を抜くような日本人打者は、私たちが生きている間は、もう出てこないかもしれない――。そう考えると、この記録がどれだけの偉業を成し遂げたことであるかがよく分かる。

「メジャーリーガー・イチロー」のキャリアはシアトルで始まり、12年間、慣れ親しんだシアトルで一応の区切りを見せた。もちろん今季の試合への出場はもうないからというだけで、その功績は色あせることはない。

 イチローが残したものは記録だけではない。「目標を達成するために必要な心構え」を私たちに教えてくれたことも非常に大きかった。

 身長180㎝、体重79キロと、決してメジャーリーガーとして体格に恵まれていたわけではない彼が、なぜここまでの成績を残すことができたのか、話は彼の小学校時代にまでさかのぼる。

 

「好きなこと」を見つけるのは、早ければ早いほどいい

 1973年10月22日に生まれたイチローが本格的に野球を始めたのが小学3年生のとき。野球という競技を通じて、仲間と勝利の喜びを分かち合うことを知った。当時の「鈴木一朗少年」は学校から帰ると、近くのグラウンドでお父さんとキャッチボール、トスバッティング、ノックを日が暮れるまで、小学校を卒業するまで続けた。

 イチローは当時を振り返り、「好きなことは早く見つけたもん勝ちです」と、あるインタビューで答えている。その理由を聞かれると、

「人間の寿命はどんなに長くても100歳くらい。そのなかで自分が好きなことを追求できるとしたら70年か80年くらい。そうなると好きなことと早く出会ったほうが、その後の人生でたくさんの時間、追い求めることができる」

 そこで小学6年生の卒業文集に、明確にこう書き記した。

「ぼくの夢は、一流のプロ野球選手になることです」

 中学に進むとますます野球にのめり込む。まだ「プロ野球選手になれるかどうか」が分からなかったこの時期、身近な目標を立てて、それを一つひとつ達成していくことを積み重ねた。その甲斐あってか、中学3年生のときには「3番・投手」で全国大会に出場し、3位まで勝ち進むことができた。

 当時の一朗少年がいきなりプロ野球選手を目指そうとしていたら、そこに到達するまでに数多くの挫折を味わうはずだ。一度挫折を味わうと、立ち直るのに時間がかかるし、それが続けば大好きな野球を止めてしまうかもしれない。

 だが、達成感を味わえば、その喜びとともに、「もう少し上を目指そう」というチャレンジ精神が湧いてくるに違いない。そうして小さな目標を積み重ねていっては、乗り越えていく……という作業を繰り返し、「プロ野球選手」への扉を開けていきたいと考えるに至ったのだ。

 後年、イチローは「小さな目標を積み重ねていっては、乗り越えていく」作業のことを、「正しい努力」と言っていた。

「正しい努力をしたからと言って、誰もがプロ野球選手になれるわけではありません。ひょっとしたら途中で諦めて別の道に進むかもしれない。でも… 続きを読む

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小山宣宏

小山宣宏

スポーツジャーナリスト

1973年千葉県出身。出版社、編集プロダクション勤務を経て、2007年に独立。近年は高校野球やプロ野球を中心とした取材・原稿が多い。『実は大したことない大リーグ』(江本孟紀/双葉社)、『日本人投手がメジャーで故障する理由』(小宮山悟/双葉社)、『名将の条件』(野村克也/SBクリエイティブ)、『3000安打の向こう側』(松井稼頭央/ベースボール・マガジン社)などの書籍を手掛ける。

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