夏目漱石は、小説家という職業を「道楽」と呼び、自身が小説家として生活が成り立っているのを「偶然」としています。自分自身がやりたいことをやることで、それが結果的にビジネスにつながり、現代でも読み継がれる数々の名著を残しています。

 第1回目では、先述したような内容を紹介しましたが、とはいえビジネスは、たとえ商売であろうと小説であろうと、求める読者(顧客)がいてこそ成り立ちます。自分がやりたいことで成功するためには、顧客が何を望んでいるのか、社会が何を求めているのか、そうしたニーズ(必要性)を掴むセンスが求められます。

 しかし漱石は、時代のニーズを追い求めて小説を書いていたわけではないようです。むしろ、「顧客」「社会」が求めているものより、「自分」が求めているものを追求した結果、名作が生み出せたように語っています。

 漱石は、なぜ世間のニーズに着目せず、歴史に残る名作が生み出せたのでしょうか? 前回に引き続き、漱石が生前に残した5つの講演を、漱石研究の第一人者である東京大学の小森陽一氏が解説した書籍『夏目漱石、現代を語る 漱石社会評論集』(夏目漱石著、小森陽一編著、角川書店)から読み解きます。

 

ロンドンの引きこもり生活で掘り当てたものとは

 漱石は、本書に取り上げられている講演にて、徹底的に自分のこころを「鶴嘴(つるはし)で掘り当てるところまで進んでゆかなくってはいけない」ことの重要性を語っています。自身はその結果、「個人主義」にたどり着き、それが小説家として仕事をするうえで、心の支えになったとしています。

 漱石がなぜ個人主義にたどり着いたのか、少し長くなりますが説明します。

 漱石は帝国大学で、英文学を3年間専攻しました。しかし、英文学はおろか「文学とはどういうものだか」分からずに、卒業しました。そして、知人に推薦されるままに学習院の教師になろうとしますが、不採用になってしまいます。

 学習院に採用されなかった漱石は、教師を養成する師範学校の教師と、中学校の教師の2つの道を斡旋されます。しかし、師範学校は自分には向いていないとして、漱石は四国の松山で中学校の教師になる道を選びます。この松山での経験は、小説『坊っちゃん』に反映されたことでよく知られています。

 その後、熊本に引っ越して高等学校の教師になりますが、漱石は「自分の職業としている教師というものに少しの興味も有(も)ち得ない」「教場で英語を教えることがすでに面倒(めんどう)」と告白しています。

 そんなとき、文部省からイギリス留学の声がかかります。当時のエリートとしては最高のチャンスにもかかわらず、漱石はこの命令を辞退しました。「私のようなものが、なんの目的も有(も)たずに、外国へ行ったからといって、別に国家の役に立つ訳もなかろう」と辞退の理由を述べています。

 しかし、教頭に説得されて、結局はしぶしぶロンドンに留学します。そこで目の当たりにしたのは、日本に対する海外からの屈辱的な評価でした。何か成さなければならない使命感に焦りつつも、何もできない漱石は、暗澹(あんたん)とした気持ちで下宿に引きこもってしまいます。

 苦悩の日々を送る中で、漱石は、これまでは西洋の受け売りの文学や批評にこだわって『他人本位』であったと気づきます。こうして留学生活の中で結実した言葉が… 続きを読む

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外岡 浩

外岡 浩

株式会社ソーセキ・トゥエンティワン 代表取締役

テクニカルライター、教育関連出版社、マーケティング会社、IT関連出版社などを経て、現在、オウンドメディアのコンテンツライティングを中心に事業を展開。IT、マーケティング、ビジネス分野の原稿を執筆。

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