日本史、伝説を生んだカリスマの魅力(第5回)

佐々木小次郎:なぜ「敗者」が名を残したのか

2017.12.21 Thu連載バックナンバー

 剣豪・宮本武蔵は、生涯60数度におよび戦い、一度も負けなかったという。その数ある勝負のなかで最も有名な対戦相手が「佐々木小次郎」であることは、誰もが認めるところだろう。ふたりの戦いは「巌流島の決闘」として、映画やドラマ、小説など数多くの作品になっている。

 著作や書状を多く残した武蔵は、氏素性が明らかになっている一方、小次郎にまつわる確かな史料はほとんど残っていない。武蔵と対決したというのはおそらく本当だが、その人物像には諸説が入り混じる。しかし、そんな謎の人物が、しかも武蔵に負けた「敗者」が、なぜ現代まで名を残しているのだろうか。

 

「武蔵が遅刻」「小次郎が鞘を投げ捨てる」の元ネタとは

 決闘の概要を記しておこう。二人が対峙したのは、1612(慶長17)年4月13日。決闘は関門海峡にある小さな島・船島にて、午前8時から行われる予定だった。しかし、予定の刻限を過ぎても、武蔵が一向に現れない。待ちくたびれた小次郎の怒りが体内に満ちていくなか、武蔵は悪びれる様子もなく悠然と船に乗って現れた。午前10時。2時間の遅刻であった。言うまでもなく、小次郎の動揺を誘うためである。

「その方の遅滞は何事か。心臆したか!」

 激昂した小次郎は、武蔵を睨みつけながらさっそく刀を抜き、鞘を水中に投げ捨てた。その様子を見た武蔵は不敵な笑みを見せ、大声で叫ぶ。

「小次郎、敗れたり! 勝者であれば、なぜ鞘を投げ捨てん」

 さらなる無礼をけしかけられて冷静さを失った小次郎は、怒りにまかせて「物干竿」との異名を持つ長刀を武蔵に向かって振り下ろした。対する武蔵も俊敏に応じる。

 勝負は一瞬だった。小次郎の切っ先は武蔵の頭部をわずかにかすめ、巻いていた鉢巻を真っ二つにしたが、武蔵の木刀は小次郎の脳天に直撃。倒れた小次郎が絶命したのを見届けると、武蔵は乗ってきた船に再び乗り込み、立ち去っていった……。

 これは、武蔵の伝記である『二天記(にてんき)』の記述に沿った内容だ。『二天記』とは、熊本藩を治める細川家の筆頭家老・松井家の家臣である豊田景英が、祖父の代から三代かけて編纂したもの。生前の武蔵が語ったことを、最後の弟子たちから聞き取り、まとめている。同書の内容が、今日の武蔵や小次郎の姿の土台になったといえる。

 

なぜ負けた側が島の名前になったのか

 しかし、こうした書物が残っているにもかかわらず、小次郎の素性ははっきりしていない。

 そもそも、小次郎はどこで生まれたのかすら不明である。 『二天記』には「岩流小次郎と云ふ剣客あり。越前宇坂の庄、浄教寺村の産なり」との一文があるため、出生地は越前国(現在の新潟県)が有力視されている。しかし、近江国(現在の滋賀県)や周防国(現在の山口県の一部)などの説もある。

 先に挙げた決闘シーンにも異説がある。… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

小野 雅彦

小野 雅彦

フリーライター

歴史時代作家クラブ会員。雑誌やムックなど、戦国時代や幕末などの日本史にまつわる記事を中心に執筆。地方に埋もれた歴史や人、事件などについて取材を続けるほか、東日本大震災以降は原発関連の記事なども手掛けている。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)がある。秋田県秋田市出身。

このページの先頭へ
Bizコンパス公式Facebook Bizコンパス公式Twitter