上田城は、真田一族ゆかりの観光地の中で最も知名度が高く、真田ファンの“メッカ”と呼べる巡礼地だ。NHK大河ドラマ『真田丸』の人気を受け、連日多くの観光客でにぎわっている。
上田城というと、真田昌幸が2度にわたり徳川軍を撃破した「不屈の名城」として知られる。1回目は昌幸が徳川から上杉へと主家替えしたことに端を発する第1次上田合戦(1585年)。2回目が関ヶ原の戦い直前に徳川秀忠率いる東軍を足止めした第2次上田合戦(1600年)である。2度の戦いではどちらも、昌幸が智謀を駆使して、寡兵をもって上田城に迫る徳川方の大軍を退けている。
上田城は現在、本丸を中心に史跡公園としてよく整備され、見どころも豊富だ。遺構や見どこを辿りながら、城の歴史となぜ徳川の大軍を退けることができたのか、その理由に迫ってみよう。

徳川を破るために徳川に築かせた城だった!?
3月13日に放映された大河ドラマ『真田丸』(第10回「妙手」)の中で、真田信之が家康に対し、上杉景勝に対抗するために上田城築城が肝要であると説得するシーンが描かれた。ドラマではその後、上杉対策というのは家康に築城費用を出させる名目であり、じつは上田城は家康との対決を前提とした城であり、その費用を当の家康に捻出させるために上杉対策という方便を使った、という昌幸の謀略が明かされる。
はじめから家康との対決を前提にしていたというのは定かではないが、上田城が家康の対上杉対策のために築かれたというのは史実である。築城費用も徳川家が支援している。
現在の上田城を訪れると、本丸に入る際に正門の東虎口櫓門と北櫓・南櫓が観光客を出迎えてくれる。虎口(こぐち)とは城の出入り口のことで、櫓門(やぐらもん)とは門の上に、高いところから見張ったり敵兵を迎撃するための二階部分を設けたもの。櫓門と2つの櫓が並ぶ光景は、天守を持たない上田城の“顔”といえるだろう。
2つの櫓は明治維新後に売却されて市内に移築され、一時は遊廓として利用されていたという。その後市民の寄付によって城へと戻り、1994(平成6)年に2つの櫓をつなぐように櫓門が復元された。江戸時代と変わらない外観が整えられたのだ。櫓門へとのびる石橋の右手には水堀があり、春には爛漫と咲く桜が見事だ(見頃は4月上旬~中旬)。

ただし、この光景が真田昌幸時代からあるものと捉えるのは間違いだ。… 続きを読む