本連載では、これまで数多の英雄たちの「決断」を紹介してきた。それは、もちろん『三国志』という歴史書を紐解きながら、積み重ねてきたものに他ならない。
この不朽の歴史書『三国志』の著者の名は陳寿(ちんじゅ)という。陳寿は実際に三国時代を生きた人物だった。彼が筆をとらなければ、私たちは劉備や諸葛亮、曹操といった人びとの活躍はおろか、その存在すら知ることはなかったかもしれない。
しかし、当の陳寿本人の人柄や事跡を知るひとは、あまり多くないだろう。なぜなら、著者である彼自身が『三国志』に登場することは基本的になく、当人の伝記は、それよりも後の時代に書かれた『晋書』(しんじょ)に収録されているためだ。
そこで今回は『晋書』から伺い知れる陳寿という人物像や『三国志』を書くにいたった経緯に迫ってみたい。
諸葛亮が散るその前年に産声をあげる
陳寿が生まれたのは西暦233年。諸葛亮が五丈原(ごじょうげん)の戦陣で没する前年にあたる。生誕地は当時、劉禅の統治下にあった蜀の南充(四川省南充市安漢県)という土地だ。
父親の名前はわからないが、諸葛亮の部下・馬謖(ばしょく)に従って北伐(魏への侵攻)にも参加していた。陳寿は蜀の地に生まれ、蜀に仕える軍人の家系に育ったのである。
だが、陳寿が勤しんだのは武術ではなく、主に学問だった。若き日、彼は同郷の学者・譙周(しょうしゅう)の門下に入り、学問を教わった。
師は蜀の創業者・劉備が帝位に就任するさい、それを支持した官僚のひとりであり、また、その息子・劉禅の教育係を務めた人でもあった。丞相(最高位の官僚)の諸葛亮が死去したときは自宅にいたが、ただちに漢中へ駆けつけたという。
陳寿は生まれたのが遅かったため、劉備や諸葛亮と直接には会ったことがない。しかし、おそらくは師を通じて、彼らの偉大さや業績を知ったに違いない。陳寿は経書や史書に精通し、優れた文才を持つと評価され、頭角をあらわしていった。
持ち前の気骨が災いし、不遇の身に
蜀の官僚時代の陳寿の人柄を示すエピソードがある。皇帝・劉禅が寵愛した黄皓(こうこう)という宦官(かんがん)がいた。
この黄皓、劉禅に寵愛を受けていたことを幸いとばかりに、劉禅を意のままに操り、自分にとって都合のいいように政治を動かしていた。その佞言(ねいげん、媚びへつらう言葉)によって劉禅が政治に対する興味を失い、蜀は滅亡への道を辿ったともいわれ、いわば蜀・衰亡の元凶である。
陳寿は、この黄皓と対立していた。その汚い振る舞いを許せなかったのか、しばしば逆らう言動をしたようだ。しかし、それが仇となった。… 続きを読む