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裏方に徹し続けて35年、呉の“絶対的大黒柱”朱治の生きざま
2019.09.27

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第71回

裏方に徹し続けて35年、呉の“絶対的大黒柱”朱治の生きざま

著者 上永 哲矢

 三国志という歴史物語の一角をなす「呉」は、孫堅孫策孫権と続いた孫家三代が創業した国家だ。当然ながら、その建国と繁栄は、数多くの家臣たちの奮闘によるところが大きかった。

 その中でも最大の功労者は誰か。筆者は今回の主人公・朱治(しゅち)ではないかと考えている。

 朱治と聞いても、ピンとこない方が多いかもしれない。なぜなら、彼は小説「三国志演義」では2ヵ所しか出番がないからだ。

 戦場での華々しい活躍とも無縁である。養子にあたる朱然(しゅぜん)は関羽を捕らえるなどの活躍を見せたのに比べ、朱治はもっぱら後方支援に徹していた地味な人だった。

 では、どうして彼が功労者なのか? 史実を紐解きながら、その生涯を辿ってみよう。

 

優秀な地方官僚の人生を変えた出会い

 朱治は、揚州の丹楊(たんよう)郡・故鄣(こしょう)県という場所で役人をしていた。丹楊郡は、現在の上海を含む江蘇(こうそ)省にあたり、当時は呉郡とともに江東地方の中心部にあった。そこで働くうちに、朱治は揚州従事(太守の属官)という要職に就いた。州のトップに近いところに昇ったのだから、相当に有能であったのだろう。

 一官僚にすぎなかった朱治の人生を大きく変えたのが、孫堅との出会いである。西暦180年代後半、孫堅は長沙(荊州南部)太守に就任し、主に江南地方(長江の南岸一帯)の治安維持に力を入れていた。当時は政治の乱れにより、後漢政府に従わない豪族や民衆らが武力で治安を乱していたのだ。そこで黄巾党の討伐などに功績のあった孫堅が、政府にその活躍を認められ、太守として派遣されてきたわけである。

 勇猛果敢、統率力に優れる太守・孫堅には日に日に味方する者が増えていった。朱治もまた、そのひとりだった。朱治は揚州から兵を率いて馳せ参じ、孫堅軍に合流したのである。朱治と孫堅とは同世代(33~34歳)。それもあってか、よほどにウマが合ったらしい。総大将・孫堅のもと、一致協力して反乱軍を討伐して大いに成果をあげた。

 

統率力を買われ、別動隊の指揮官に抜擢されるが……

 2年後の190年、洛陽に君臨し、権勢を振るう董卓を倒そうと、諸侯が包囲網を築く。「反董卓」連合軍の結成である。これに孫堅軍も参加し、洛陽へ進軍した。その傍らに朱治の姿もあった。孫堅にとって、朱治は2年のうちになくてはならない側近となっていたようだ。

 やがて合戦を迎えるが、諸侯は勇猛な董卓軍を恐れて戦おうとしなかった。しかし孫堅軍は、単独で果敢に交戦。武将・華雄(かゆう)を討ち取り、恐れをなした董卓を長安へ撤退させた。董卓を討つには至らなかったが、意気洋々と凱旋した孫堅は休む間もなく戦い続けた。

 そうした中、朱治は孫堅から一部隊を預かり、東の徐州へ赴いて反乱軍の鎮圧にあたった。孫堅の本隊から独立した軍を率いる副将、いうなれば副社長のような地位になったのである。孫堅のもとには、すでに黄蓋(こうがい)・程普(ていふ)・韓当(かんとう)という3将を筆頭に多くの勇将がいたが、朱治は別格の存在といえた。

 ところが好事魔多し… 続きを読む… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

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