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魏のサラブレッド・夏侯覇は、なぜ祖国を捨てたのか?
2019.08.26

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第70回

魏のサラブレッド・夏侯覇は、なぜ祖国を捨てたのか?

著者 上永 哲矢

 魏の創始者・曹操のもとには、夏侯惇(かこうとん)、夏侯淵(かこうえん)という有能な将軍がいた。曹操は父親がもともと夏侯家の出身であったから、両将軍とは旗揚げ当初から行動をともにし、兄弟のように濃密な関係だった。

 魏軍を代表する名将・夏侯淵の子が、今回取り上げる夏侯覇(かこうは)である。彼は武門のエリートとして英才教育を受けたのだろう。父のもとで、武術に通じた将へと成長していった。いわば、魏にとってのサラブレッドである。

 しかし夏侯覇は、あることをきっかけに、魏を離れ、ライバルである蜀に降ることを決意する。二代に渡る魏の忠臣である夏侯覇は、なぜそんな道を選ばなくてはならなかったのだろうか?

 

父・夏侯淵の急死で運命が一変

 彼の運命を大きく変える凶事が、西暦219年に起きた。魏の重要拠点・漢中の定軍山を守備していた父・夏侯淵が、劉備率いる蜀軍に敗れ、討たれてしまったのだ。父だけでなく、弟の夏侯栄(えい)も戦死した。

「夏侯淵戦死」の報に、夏侯覇は驚くとともに嘆き哀しみ、同時に誓った。「必ずや、父や弟の仇を討つ」と、蜀への報復を胸に刻み込んだのである。

 だが、その機はなかなか訪れなかった。魏では曹操が220年に没し、さらにその息子の曹丕も、皇帝即位から6年で世を去ったからだ。国政が不安定な中、魏は蜀軍の諸葛亮による北伐にさらされ、防戦一方の展開となる。夏侯覇は憤懣やるかたない思いを、国防のための仕事に打ち込むことで晴らすしかなかった。

 父の死から10年あまりが経った230年、ようやくその機が訪れる。魏は大司馬(だいしば=国防長官のような役職)・曹真の指揮のもとで蜀への反撃に転じた(子午の役)。当然ながら夏侯覇もその急先鋒に抜擢されて勇躍、蜀へと攻め込んだ。

 しかし、魏軍は敗退した。諸葛亮や魏延を主力とする蜀軍は思いのほか手ごわかった。蜀までの進軍ルートには山脈が横たわり、きわめて険阻で、魏軍は思うように進めない。加えて大雨にも見舞われ、兵糧も腐敗してしまうなど、悪条件が重なったことも敗因となった。

 先鋒として最前線にいた夏侯覇も進退きわまるが、援軍に救われて辛くも退却できた。ようやく遂げられると思った父の仇討ちもできず、不甲斐ない思いであったであろう。

 

志を果たせぬまま、命の危機にさらされる

 敗れはしたが、その最前線での働きが評価されてか、夏侯覇は「征蜀護軍」に昇進した。蜀打倒という思いを持つ、彼にふさわしい役職である。曹一族の重鎮・曹爽(そうそう)ら、魏の上層部も夏侯覇の思いをよく分かっていたようだ。

 しかし、魏の情勢は風雲急を告げる。249年、司馬懿がクーデターを起こし、曹爽や何晏といった曹一族の有力者を捕らえて誅殺した(高平陵の変)。当然、その追及の手は夏侯家にまで伸びてくる。

 当時、夏侯覇の上司は身内の夏侯玄(げん)であったが、その夏侯玄が、郭淮(かくわい)という新たな将軍と交代させられた。悪いことに、夏侯覇はその郭淮と不仲だった。いずれ夏侯覇にも害が及ぶことは時間の問題だ。

「このままでは……」と身の危険を感じた夏侯覇は、… 続きを読む… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

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