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地味ながら生涯現役!呉を支え続けた名脇役・韓当
2019.05.25

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第67回

地味ながら生涯現役!呉を支え続けた名脇役・韓当

著者 上永 哲矢

 三国時代の呉は、孫堅・孫策・孫権の三代にわたる活躍によってできた国家だ。その建国と繁栄は当然ながら数多くの家臣たちの奮闘あってのこと。中でも、孫家三代に仕えた3人の宿老、黄蓋(こうがい)・程普(ていふ)・韓当(かんとう)の存在なくして、「孫呉」(孫家が呉の国を統治した時代)は語ることができない。

 今回は、その「三宿老」のひとり、韓当にスポットを当てたいと思う。

 きっぱり言うのもどうかと思うが、韓当は3人の中での序列では「末席」に甘んじている。たとえば「赤壁の戦い」で周瑜とともに呉の総指揮官を務めた程普、みずから先鋒となって果敢に火攻めを行なった黄蓋のような、華々しい活躍とも無縁の男であった。

 そんな地味な彼が、なぜ長い間、呉の中心人物として活躍し続けられたのだろうか? 今回は韓当の生涯にスポットを当てる。

 

槍一本で出世、謎の生い立ち

 程普も黄蓋も、元々は地方で役人を務め、郷里ではそこそこ知られた存在だった。だが、韓当にはそうしたバックボーンがない。どんな家庭に生まれ、育ったのか。そうした「生い立ち」がいっさい記録にないのだ。戦乱の雲の中から、まさに槍一本で世に躍り出てきたような人なのである。

 生まれも呉の地方(南方)ではなく、北方の幽州(ゆうしゅう)遼西郡。現在の北京よりやや東にあった、田舎町といえるような辺境だった。そんな彼がどうやって孫堅(孫権の父)に仕えたのかも知るすべがない。記録(『呉書』)には「英傑たちの配下にいて、その下働きをしていた」とあるだけだ。

 韓当の取り柄といえば、まず体力があったこと。それに加え、弓を引かせてみると抜群の腕前。馬も上手に乗りこなした。「なかなかの逸材ではないか」と、孫堅も思ったのだろう。ほどなく目をかけられ、次第に重用されるようになったようだ。

 孫堅自身も、旗揚げ当初は駆け出しの存在だった。彼はみずから城壁をよじ登り、陣頭に立って戦った。黄巾の乱や董卓軍との戦いでの活躍は、全諸侯のうちで第一位といって良かった。そして、そんな孫堅のそばに常に従い、支え続けたのが、程普、黄蓋、韓当の三将であった。

 韓当は危険を顧みず必死に戦い、討ったり捕らえたりした敵は数知れず。晴れて「別部司馬」に任じられた。つまり別動隊として働ける、単独の軍勢を率いる将の地位へと上り詰めたのだ。

 ところが、その矢先の西暦191年、孫堅は劉表軍との戦いのさなかに矢を浴び、あっけなく落命してしまう。37歳の若さであった。自分を取り立て、生き場を与えてくれた主君の死。韓当の落胆はどれほどであったか……。かくして孫堅軍は瓦解し、その残兵は主筋にあたる袁術のもとに吸収された。

 

耐え忍び、孫家再興の機を待つ

 しばらく、韓当たち孫家旧臣は、空しい日々を過ごした。彼らは袁術配下の一軍隊として働いたが、ずっと孫家再興に思いを馳せていたのだ。韓当は時を待ち、来るべき日に備えつつも黙々と働いた。

 それから3年後の194年、孫堅の子・孫策(20歳)がついに決起する。… 続きを読む… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

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