Bizコンパス

劉備も諸葛亮も司馬懿も絶賛!主君を変えても愛された快男子・黄権
2019.04.19

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第66回

劉備も諸葛亮も司馬懿も絶賛!主君を変えても愛された快男子・黄権

著者 上永 哲矢

「黄権」(こうけん)という名前を聞いて、三国志を良く知る人であれば、大半は「蜀の文官」という印象をお持ちのことだろう。

 確かに彼は文官の出で、はじめは益州(蜀)の劉璋(りゅうしょう)に仕える主簿(しゅぼ/帳簿や庶務を務める人)として登場する。

 だが、この黄権という男。一介の文官として扱うには足らない人物、いわば「大物」であった。忠臣として知られたが、図らずも二度、主君を変えることを余儀なくされた。しかし、決して「裏切り者」と呼ばれなかった。彼の生涯を辿りながら、その理由と“大物ぶり”を紹介したい。

 

劉備を招き入れれば、一国にふたりの君主ができてしまう

 黄権の大物ぶりが最初に発揮されたのは、西暦211年、劉璋が劉備を益州へと招き入れた時のこと。益州では10年にわたって北方の張魯との諍いが起きており、その脅威を除く必要があった。劉璋は戦に長けた劉備たちを招き入れ、彼に張魯を討伐させようとしたのである。

 だが、これに毅然と反対したのが、誰あろう黄権だった。「劉備を招き入れれば、一国にふたりの君主ができてしまいます」と言って諌めた。彼は、劉備が野心家であることを見抜いていたのだ。

 しかし劉璋は、法正や張松らの説得に折れ、黄権の声に耳を貸さない。黄権はなおも反対したが相手にされず、地方へ左遷されてしまった。

 はたせるかな、劉備は益州へ入ったのち、劉璋軍と争いを始めた。そして3年後の214年、首都・成都は包囲され、劉璋は劉備の軍門に降る。劉備の「益州乗っ取り」は、まんまと成功。黄権の危惧は現実となった。

 やがて蜀の百官(役人)が劉備に次々と降伏するなか、黄権は自分の城の門を閉ざして堅守に務める。そして劉璋が劉備に完全降伏したのを確認してから、ようやく城を開けて、劉備のもとへ出頭した。忠臣の鑑ともいえる、堂々とした態度。これに感じ入った劉備は、彼に偏(へん)将軍の地位を与えて報いたのである。

 それから5年後の219年、劉備は曹操と漢中争奪戦を繰り広げ、これに勝利して「漢中王」を名乗る。

 この戦いにおいて、現場で指揮をとったのは劉備や法正であったが、その戦略大計は黄権が立て、差配したものであったという。劉璋への忠誠を示しながら主を代えた黄権であったが、劉備と会い、自分が仕えるにふさわしい君主であることを確信したのだろう。以後、その才を惜しみなく発揮して、サポートに務めたのである。

 

なぜ黄権は主君を“裏切る”道を選んだのか

 漢中奪取の喜びに湧いたのもつかの間、東で異変が起きた。劉備配下の猛将・関羽が、魏・呉の挟撃を受けて敗死。蜀が治めていた荊州の地が、呉に奪われてしまったのである。

 何としても荊州を奪い返さなくてはならない。それより何より、関羽は劉備にとって弟も同然。劉備は怒りに燃えて、呉への出兵を決意する。222年、夷陵の戦いの幕開けである。

 性急に過ぎたこの出兵に対し、蜀の軍師である諸葛亮も法正も止めなかった。そもそも法正は2年前に他界しており、諸葛亮も軍事権がなかったのか、反対を唱えた形跡は残っていない。

 ただひとり、黄権だけがこういって諌めた。… 続きを読む… 続きを読む

続きを読むには会員登録が必要です

上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

関連キーワード

SHARE