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「官渡の戦い」最大の功労者・許攸はなぜ粛清されたのか?
2019.03.20

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第65回

「官渡の戦い」最大の功労者・許攸はなぜ粛清されたのか?

著者 上永 哲矢

 スポーツの世界ではファインプレーやミスがきっかけで試合の流れが変わるように、ひとりの人間の行いが重大な結果をもたらす例は多い。三国志のハイライトのひとつ「官渡の戦い」も然りであった。

 この一戦は許攸(きょゆう)という人物の、とある行動がきっかけで勝敗が決したといっても過言ではない。いわば官渡の戦いのキーパーソン、許攸とは一体いかなる人物だったのか。

 

皇室転覆を企てるほどの野心家

 許攸の幼少期の動向は不明だが、相応の家柄に生まれたようだ。西暦180年代には、都の洛陽で役人を務めていた。当時、袁紹曹操も同じ立場で、同年代の彼らは親しく交流していた。とくに袁紹とは「奔走の友」の交わりを結んでいたという。「奔走の友」とは、互いに奔走しあう仲間、つまり親友同士であった。

 若き許攸は野心家だった。時は後漢の12代・霊帝のころ、彼は皇室転覆計画に参加する。当時の朝廷は賄賂政治が横行して腐りきっていた。それに嫌気がさしていた者たちが、まず霊帝を廃立し、皇族の合肥侯(がっぴこう)を皇帝にしようという大胆な政治活動を企てる。その主要メンバーに許攸も名を連ねていたのだ。

 許攸らはひとりでも多く仲間を増やそうと、旧知の仲である曹操に協力を求める。だが曹操は霊帝への忠誠心が篤く、話に乗ってこなかった。「奔走の友」である袁紹は両親の他界により、喪に服すため朝廷を離れてしまっていた。

 思うように同志を集められぬまま、許攸たちはやむなく計画を進めたが、はたして失敗。反逆者となり、身の危険を覚えた許攸は洛陽から逃走した。これより、しばらくの間、許攸の名は歴史の表舞台から消える。

 それから時がたち、西暦189年に霊帝が没した。その後、各地に群雄が割拠する動乱の時代に入る。そうしたなか、抜きんでたのが袁紹と曹操であった。

 袁紹は名族の威光を背景に黄河の北(河北)に広大な領地と強大な軍事力を有し、その権勢は並ぶものがなかった。

 一方の曹操は、兵力こそ袁紹に及ばないが、河南の要地である中原の大半を支配し、献帝(霊帝の跡を継いで即位した皇帝)を保護下に置き、漢王朝の後ろ盾を得ていた。西暦200年、この華北の二強による「官渡の戦い」が始まった。

 この重要な局面に、許攸は再び表舞台に現れる。… 続きを読む… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

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