名声は高いが、評価は低い……。スポーツ選手に言いかえれば、「成績は良いけど、人気はいまひとつ」。三国志の曹洪は、そんな見方をされがちな武将である。

 過去の連載で、英雄・曹操の親族かつ重臣として活躍した夏侯惇夏侯淵曹仁の3人を紹介した。曹洪(そうこう)は、彼らとともに曹操軍を創生期から支えた人物だ。三国志を扱う漫画などの作品で、4人は「四天王」と称され、他の将軍たちとは別格の扱いである。

 しかし、その中にあって曹洪の活躍の描写は弱く、地味である。他の3人より人気面でも劣り、末席の扱いに甘んじている。「四天王」に選ばれるほどの名声があるのに、なぜ評価が低いのか……。今回はその理由にも迫りたい。

 

旗揚げ直後に見せた、歴史を変える大活躍

 西暦190年、曹操は都で暴政をふるう董卓の討伐のために旗揚げし、当地へ赴いた。その陣中、曹操の傍にいたのが若き日の曹洪だった。その姿は実に颯爽としていたようだ。彼の家は裕福で、馬を多く飼っていたが、その中から白鵠(はくこう)という駿馬を選んで出陣していた。

「走れば、ただ風の音が耳に鳴るばかり。足は地を踏まず浮いているよう」と評されたほどの名馬。それにまたがる姿を、誰もが羨んだことだろう。

 しかし、曹操軍は数の不利もあって敗れた。総大将の曹操は敵将・徐栄(じょえい)の軍勢に追われるうちに馬から落ち、歩いて逃げ回る始末。敵が肉迫し、その命も風前の灯……。あわやという時に現れたのが、白鵠にまたがる曹洪だった。大乱戦のなか、彼は愛馬を駆って主・曹操の姿を探し回っていたのだ。

 曹洪はすぐに下馬すると、その馬に曹操を乗せた。曹操は「お前はどうするのだ」と遠慮するが、曹洪は「この世に私などいなくとも何ともないが、貴方はいなくてはならない」と曹操を馬上に押し上げ、自分は徒歩でその手綱(たづな)をとった。

 川のほとりまで逃げたが、馬で川は渡れない。曹洪は岸辺を必死に探し回って舟を見つけ、辛くも故郷へと逃げのびた。この曹洪の勇気ある「決断」がなければ、曹操は旗揚げまもなく落命し、その後の中国史は大きく変わっていただろう。

 

財を投じて兵を集め、曹操軍をたてなおす

 敗戦で多くの兵を失った曹操軍が立ち直ったのも、曹洪の働きによるところが大きい。彼は自身の人脈を生かし、今まで貯めていた財を投じて、5,000を超える兵を集めて曹操のもとへ戻った。以後、曹操軍は数々の戦いを制して中国北部に覇を唱えるが、曹洪の存在なくしてその躍進もなかった。曹操の大恩人であり、この時点で他の「四天王」より、明らかに活躍は大きかったといえよう。

 曹操が袁紹と激突した、天下分け目の決戦「官渡の戦い」(西暦200年)でも曹洪は活躍した。曹操が奇襲をしかけるため出撃すると、曹洪は官渡城の留守を預かった。直後、袁紹軍が攻め寄せてくるが、曹洪は粘り強く戦って見事に守り抜く。そればかりか、軍師・荀攸(じゅんゆう)の進言に従い、袁紹軍の将たちを寝返らせることにも成功。ここでも地味ながら抜群の働きだった。

 曹洪は戦場で人の意見をうまく用いたようだ。だいぶ後年のことになるが、217年に武都(ぶと)で劉備軍との戦いに臨んだ際、大将を務めた曹洪は、副将・曹休(そうきゅう)の進言を聞き入れて勝利を収め、張飛馬超を撤退に追い込んだ。同族ながら、自分よりずっと年が若い曹休の意見を採用する度量の広さも見せたのだ。

 

曹丕に恨まれ、表舞台での活躍が急激に減る

 ところが、曹操の勢力が盤石となってくるにつれ、曹洪の活躍の記録は減る。その理由だが、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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