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「出る杭は打たれる」も、曹操を反省させた楊修親子
2018.11.23

上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」第61回

「出る杭は打たれる」も、曹操を反省させた楊修親子

著者 上永 哲矢

 楊修(ようしゅう)は、先祖代々、漢王朝の要職をつとめる名門の家に生まれた。その家柄、幼くして聡明だったことで20歳をすぎたころにスカウトを受け、曹操に仕えるようになる。

 まさに順風満帆の人生だったわけだが、ある「食べ物」にまつわる事件を機に運命が変わり、その人生までもが終わってしまう。一体、彼はどんなミスを犯したのだろうか……。

 

献帝を救い、曹操に盾突いた父の気骨

 楊修を語るには、まず彼の父・楊彪(ようひょう)のことを説明しておくべきだろう。西暦195年、都の長安は戦乱によって荒れ果て、皇帝(献帝)の身の置き所もない有様だった。

 このとき献帝の側近の一員として重きを成していたのが、楊彪だった。無二の忠臣であった彼は重臣らと力を合わせ、献帝を連れて長安を脱出。洛陽へと落ち延びた。このとき、若き日の楊修も一行の中にいたはずだ。

 しかし、逃げ延びた先の洛陽も、かつて董卓に破壊された焼け野原だった。日々の食べ物もなかなか手に入らず、献帝もその臣下たちも飢えに苦しみ、惨めな日々を過ごす。そこに救いの手を差し伸べたのが曹操だった。曹操は軍勢を連れて洛陽へ入り、献帝一行を保護すると、自領である許(許昌市)への転居を勧めた。皇帝が移動することは、遷都を意味する。

 ここで「漢王朝400年の都を他へ移すことなど、到底承服できない」と声を上げる者がいた。楊彪であった。曹操が献帝を保護下に置き、その威光を利用することは目に見えていたから、その牽制の意味もあった。

 だが、このまま洛陽にいては献帝の命を守ることもおぼつかない。一行は渋々、従うしかなかった。かくして献帝らは曹操の支配地・許昌へ移り住み、そこを新たな都として再出発する。だが、事あるごとに曹操と楊彪は対立。特に曹操は献帝に対し、礼を失した態度をとることも多く、楊彪は血相を変えて咎めることもあった。その結果、楊彪は処刑されそうになったり、要職から外されるといった冷遇を受けた。

 息子の楊修が曹操の配下として活躍を始めるのは、ちょうどその頃からだ。楊彪は第一線から退く代わりに、子の楊修に「頼んだぞ」と後事を託したのだろう。

 楊修は、曹操軍の食料庫を管理の一切を任されるようになる。大変に重要な仕事で、また激務でもあったが、彼は卒なくこなしたため、さらに重用された。曹操は父・楊彪の子であることを警戒しつつも優遇。そして、その息子たちである曹丕や曹植らの覚えもめでたくなっていく。

 

曹操の子、曹植のために知恵を振り絞るが……

 特に曹植は、楊修を兄のように慕い、「数日お目にかからないと、心がイライラしてしまいます」とまで手紙に書き、楊修も「お側にいられないことが数日にもなりますと、年を越すほどの思いがします」と返書するほどの交流を結んだ。

 折しも曹操の陣営では、長子の曹丕と、弟・曹植との後継者争いが起きていた。曹植が楊修を頼ったのも、むろん自分が有利になるよう、色々と知恵を借りたいがためでもある。楊修もそれを分かっていたし、なんとか彼を優位に立たせようと決意する。

 楊修が思いついた策は、… 続きを読む… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史著述家・紀行作家。日本の歴史、および『三国志』をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、各種雑誌やWEBサイトに寄稿、連載を持つ。全国各地の史跡を取材し、城や温泉にも造詣が深い。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。神奈川県出身。

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