歴史に「たられば」は禁句とされる。だが、「あと数年、この人が長生きしていれば…」と思わせる人物は少なくない。『三国志』の場合は法正(ほうせい)こそが、その筆頭格だろう。なにしろ、かの名軍師・諸葛亮(孔明)が彼の短命を大いに嘆いたほどなのである。

 今回は、そんな希代の戦略家・法正の生涯および決断について語りたい。

 

上司の才能に失望するも、飛躍のタイミングをうかがい続ける

 法正が歴史上にその姿を表すのは西暦196年、21歳の時だ。彼がそれまでどんな人生を歩んだのかは分からない。故郷が飢饉に見舞われたため、南方の益州(えきしゅう)へ逃れて、その地方長官・劉璋(りゅうしょう)のもとに身を寄せた。

 だが、やがて彼はそこでの境遇に不満を抱き始める。能力があるのに重用されなかったからだ。益州のトップ、劉璋は覇気がなく、器量の乏しさが囁かれる人物だった。法正は「これでは大事を成せない」と考え、身の処し方を案じるようになっていく。しかし、まだその時ではなかった。まずは劉璋政権下で実力をつけ、機会を待つことにした。

 それから10年あまりの歳月が経ち、天下の情勢は大きく動く。北方の覇者となった曹操が、いよいよ本格的に南下を始めたのである。その矛先はまず、南の劉備、東の孫権に向けられたが、西の益州もまた脅威にさらされることになった。劉璋と敵対関係にあり、益州の北にある関中の主・張魯(ちょうろ)が、曹操と手を組んだためだ。張魯は曹操の武力を後ろ盾に、益州に圧力をかけてきた。

 劉璋は恐れをなした。まずは曹操と同盟すべきと考え、腹心の張松(ちょうしょう)を曹操のもとへ派遣する。だが、有頂天になっていた曹操は、劉璋を軽んじていた。使者の張松をまともに相手せず、追い返してしまったのである。

 曹操はその後、後世に名高い「赤壁の戦い」(208年)にて、劉備と孫権の連合軍に大敗する。敗れたものの、いまだ大勢力を誇っていた曹操は、その矛先を西の益州へ変更した。

 しかし、益州の東の荊州南部には、新たな支配者となった劉備の存在があった。曹操の南下を食い止めた劉備は、群雄の一角に成長していた。

 法正は、情勢を慎重に見極めながら、このタイミングでようやく動く。

 

転覆計画は目論見通り進んでいたが……

 法正は、友人の張松(ちょうしょう)と度々密議を重ねており、かねてより抱いていた計画を実現した。その計画とは、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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