組織のトップにいる人は、時に「孤独」を感じることもあるだろう。後漢(三国志の時代)に生きた劉表も、まさにその典型かもしれない。絶大な勢力を有しつつも晩年は孤独感に苛まれるに至ったであろう、その生涯を辿っていこう。

 

エリート官僚は、荊州のトップにどう登りつめたのか

 劉表は西暦142年、山陽郡に生まれた。現在の中国・山東省、山東半島の付け根、古くから魯(ろ)と呼ばれる土地である。前漢のはじめに皇帝・劉啓(りゅうけい)の子のひとりが移住したことで、この地には劉啓の血を分けた「劉」姓の者たちが多く住むようになり、劉表もそのひとりだった。

 魯は、思想家・孔子(こうし)の出身地でもあり、その教えである儒学が盛んだった。劉表は若くして儒学で頭角を表し、都に出仕した後は「八俊」という、優れた官僚集団のひとりとなるまで名声を高めた。漢王朝の血を引くエリート官僚で、背が高く容貌も立派だった劉表。その周りには、常に多くの人が集まっていたであろうことは想像に難くない。

 西暦189年、董卓が都・洛陽を支配し始めたころに前後して、劉表は漢王朝から荊州(けいしゅう)の刺史(しし=地方長官)に任命される。都の南東、中国大陸のほぼ中央。現在の湖北省一帯にあたる重要な州で、総人口は約600万人に達した。

 しかし、当時の荊州は乱れに乱れていた。前任の州刺史は孫堅に殺され、在地豪族や賊徒が跋扈する無政府状態だった。特に長江より南の地域は、新たに赴任してきた劉表に従う気配がなかった。

 困った劉表だが、「根回し」でこの状況を切り抜ける。蔡瑁(さいぼう)、カイ越(かいえつ)といった、自分に協力的な荊州の有力者たちを集め、彼らに厚遇を約束したうえで、助言を求めたのである。

 劉表は彼らの助言に従い、まずは各地の主要人物を誘い寄せ、赴いてきたリーダーたちを罠にはめて処刑、その配下の軍勢をことごとく手に入れて、兵力を確保した。従わぬ勢力に対しては、味方につけた豪族を使者として送り込み、説得して降伏に追い込んだ。

 

軍事の天才・孫堅の襲来。劉表がとった戦術は?

 こうして荊州での支配権を巧みに確立していった劉表に大きな危機が迫る。… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

関連キーワード

連載記事