上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第58回)

勤続50年! 国の滅亡まで活躍した偉大な凡将・廖化

2018.08.26 Sun連載バックナンバー

 世の中には、ほんの一握りの天才や秀才がいて、それ以外の人を「凡人」と呼び表すことがある。いや、べつに悪い意味ではない。筆者のような者を含め、「世の中は凡人で出来ている」と言っても過言ではないだろう。昔であれば、なおさらだった。国や軍隊は、一握りの将軍や参謀の下にいる何万・何千もの民や雑兵で成り立っていたからだ。

 廖化(りょうか)は、その中間にいるタイプの人物である。小説『三国志演義』を一読した人に「名前だけは覚えてる」など、典型的な「凡将」扱いをされることも多い。いま流にいえば、平社員の上にいながら、もうひとつ目立たない課長のような存在か。しかし、こういう人物の生き方や決断こそ味わい深く、また興味深いのも事実である。

 

亡命のため、生死をかけた大芝居!

 廖化は、劉備(蜀)に仕えた名将・関羽の主簿(しゅぼ)を務めていたという。主簿とは書記官、簿記会計役のことで、文官的な仕事のようだ。かの猛将・呂布も若い頃は丁原の主簿を務めていたというから、主人の護衛も雑務も務める小姓的な存在だろうか。小説『三国志演義』に、関羽の護衛役の周倉(しゅうそう)という架空の人物が登場するが、廖化もそのモデルの一人かもしれない。

 廖化の主人、関羽は荊州(けいしゅう)南部を守備していた。荊州は魏・蜀・呉の三国の境目にあり、中国大陸の真ん中に位置する要衝で、三国が分割統治する形となっていた。すぐ北の荊州北部は曹操(魏)の領地、東は孫権(呉)の領地と接した、いわば軍事境界線をいくつも持つ、きわめて重要な領地だった。

 ところが219年、関羽は北部侵攻に失敗。さらに退路を孫権軍に断たれ、討死。劉備軍は荊州での足場を失った。関羽に付き従っていた部下たちは行き場をなくし、孫権軍に投降した。廖化も同様だった。彼には老いた母がいたため、母を残しては死ねない、と投降を余儀なくされたのである。

 しかし、そのまま荊州で暮らす廖化の表情は暗かった。「亡き主人に顔向けできない……」と、考えていたのかもしれない。やがて廖化は人前から姿を消した。長い時が流れ、あまりに姿が見えないため、そのうち「廖化は死んだ」と囁かれるようになった。

 関羽の死から3年が経とうとしていたある日、城外に西へ向かう人影があった。それは「死んだ」と思われていた廖化だった。傍には老母の姿もあった。老母を連れた廖化が、どうやって荊州を抜け出せたのかどうかは記録がなく、分からない。もしかすると彼の思いに共感する「同志」が、手助けしたのかもしれない。

 実は、この亡命前まで彼の名は廖淳(りょうじゅん)であった。「廖化」と名乗ったのは、亡命後のことである。「廖淳は、もう死んだ。俺はお化けのようなものだ」という意味を込めたのかもしれない。いずれにしても、後世には廖化の名で伝わることになった。

 

念願の蜀で活躍、名将とも互角に戦う

 ともかく、廖化は孫権軍の領地を脱し、西の益州(蜀)への亡命に成功する。時に222年。折よく、劉備がみずから大軍を率い、関羽の仇討ちと唱えて荊州侵攻をしてきた時だった。劉備は、廖化が戻ってきたことを喜び、すぐに合流させた。あらかじめ密書を交わすなど、脱出の手筈を整えていたのかもしれない。廖化は「夷陵(いりょう)の戦い」に劉備軍として参戦、先ごろまで居たばかりの荊州へと攻め入ったのである。

 だが、… 続きを読む

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勤続50年! 国の滅亡まで活躍した偉大な凡将・廖化
上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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