三国志ファンの間で、張昭(ちょうしょう)の人気は決して高くない。その理由のひとつに、彼が小説『三国志演義』で「戦争ぎらいの保守派」として描かれているからだろう。有名な「赤壁の戦い」では主君の孫権に真っ先に降伏を勧め、主戦派の魯粛周瑜と真っ向から対立するという役回りである。

 戦場での活躍もないため、言ってしまえば「クチうるさいだけの文官」である。人気が出ないのも致し方ない。

 しかし、歴史書『三国志』から読み取る限り、張昭の存在は呉にとって非常に大きかった。その影響力は、蜀でいえば諸葛亮、魏でいえば荀イク(じゅんいく)に匹敵すると言い切れる。小説では描かれない、その事績を紐解いていこう。

 

仕官を拒否し、頑固者の片りんを見せる

 張昭は、呉が本拠地を置いた揚州(中国東南部)の生まれではなく、その北側に位置する徐州の生まれ。若い頃から学問に打ち込み、王朗(おうろう)、趙昱(ちょういく)といった地元の名士たちと親しく交流し、彼らと並び称されるほどの名声を得ていた。

 西暦190年代の初め、張昭は徐州の統治者であった陶謙(とうけん)から出仕を求められた。すでに30代半ばであったが、どこにも仕官していなかった。そんな張昭に、陶謙は「あなたほどの人物を、埋もれさせておくには惜しい。表舞台で働くべきだ」と勧めてきたのである。ところが、張昭は陶謙を評価していなかったため、これを断った。

 メンツをつぶされた陶謙は怒り、張昭を捕らえて牢獄へ放り込んでしまう。それでもなお、張昭は意思を曲げなかった。後年、「頑固者」として鳴らす張昭だが、すでにその性格は固まっていたようだ。これを聞いた趙昱が陶謙に必死に懇願したため、やっとのことで張昭は獄を出ることができた。

 その後、徐州は曹操の侵攻によって戦火に見舞われた。張昭はそれを避け、長江を南へ渡って揚州に逃れた。それからしばらくして、揚州の新たな支配者となりつつあった孫策が張昭の私宅を訪ねてくる。劉備が諸葛亮のもとを3度訪ねた「三顧の礼」という故事があるが、孫策もそれに近い形で張昭をスカウトに来たわけである。

 この時、孫策はまだ20歳ほどの若造で、しかも袁術の支配下にあった新興勢力。かたや張昭は40歳を目前に控えた賢人。だが孫策は、まず張昭の母親のもとを訪れて挨拶するなど、礼を尽くして懇願した。これに張昭も感激し、ついに孫策への仕官を決するのである。

 

重大な決意をさせた、孫策の遺言とは?

 それから1年ほど後、孫策は揚州を中心とした江東(こうとう)一帯を平定し、支配下に収めた。その政権の中心にいたのが張昭だった。張昭は、孫策が遠征する時には帯同し、留守を預かるときは文事・軍事のいっさいを委ねられるなど、全幅の信頼を置かれていた。事実、張昭の存在は大きく、その名声を慕って孫策軍に加わる者は少なくなかった。

「さすがは張昭殿」と、彼を讃える手紙が、各地の有力者からひっきりなしに届いた。張昭は主君を差し置いて讃えられることに恐縮したが、孫策は「あなたの私の関係は、桓公(かんこう)と管仲(かんちゅう)の間柄と同じです」と一笑に付したという。管仲は桓公を補佐し、覇王に覇者に押し上げた春秋時代の名宰相。孫策は張昭を管仲に例えたのである。

 しかし、それから数年後の西暦200年。孫策は暗殺者の手にかかって世を去る。臨終の場に真っ先に呼ばれたのも張昭だった。息も絶え絶えの孫策は「わが弟(孫権)をよろしく頼む」と張昭に後事を託す。このとき、『呉歴』という当時の書物によれば「もし孫権に才能がない場合、あなた自身が政権をとってほしい」とまで孫策は言ったというのだ。

 跡継ぎの孫権は、10代のうちに父(孫堅)を亡くしていた。今また、兄の孫策までも失い、泣き通しだった。ろくに政務も行なわれなくなり、国中が動揺していた。

「私は孫策殿から、この江東を任された。このままでは立ちゆかぬ――」

 そう危惧したのが張昭であった。彼は意を決し、孫権に駆け寄ると、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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