上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第55回)

劉備や曹操が憧れた「超人」盧植の高潔な生きざま

2018.04.20 Fri連載バックナンバー

 「文事ある者は、必ず武備あり」。

 これは前漢の司馬遷(しばせん)が編んだ歴史書『史記』の一節である。「文と武は、どちらか一方に偏ってはならない」という意味で、「文武両道」の語源だ。

 それを体言するかのごとく、乱世に名を成した人物の多くは「文武両道」、かつ多才だった。三国志の時代においても、周瑜は優れた将軍でありながら音楽に通じていた。曹操は武芸や兵法に優れる一方で、文人・詩人でもあったことから「超世の傑」(世を超える傑物)とまで言われている。

 歴史の担い手とは、そうした文武両道をも超越した「超人」たちーー。今回、取り上げる盧植(ろしょく)は、そのお手本のような人物だった。

 

「文武両道」を体現した逸材

 小説『三国志演義』で、盧植は劉備の学問の師として登場する。清廉潔白な人物だが、それが仇となって朝廷に目をつけられ、あまり活躍する機会もないままに表舞台から姿を消す。そんな端役に甘んじている彼だが、実際はどんな人だったのだろうか。

 現在の北京からそう遠くない幽州(ゆうしゅう)のタク郡。盧植は、この地で生を受けた。彼は幼い頃から勉学に励み、当時の国教であった「儒学」を究め、有名になった。

 儒学のテキストのひとつに、『礼記(らいき)』というものがある。代々の儒学者が「礼」に関する事柄をまとめたもので、古代中国の国家形成、社会構造の成立にも役立てられた重要な書だ。盧植はそれに注釈を入れ、多くの人が読めるようにした。

 そんな盧植の才が、一地方に埋もれるはずはなかった。彼の名声は年を経るごとに高まり、郷里を代表する人物として方々の役所に推薦される。やがて役所から使者が訪れ、盧植は地方の長官といったポストに任命された。当時、蛮族の反乱に悩まされていた地方都市、九江(きゅうこう)郡や、廬江(ろこう)郡へ赴任し、乱の鎮圧を命じられたのである。

 彼は、それを見事にやってのけた。いわば一介の学者だったはずの身ながら、人々をまとめ、兵を率い、乱を鎮圧したのだ。まさに冒頭に述べた「文事ある者は、必ず武備あり」を体言する活躍ぶりだった。盧植は8尺2寸(195cm)という図抜けた体格の持ち主。また、その声は遠くまでよく響いたそうだ。真面目一辺倒ではなく、大酒も飲んだ。将として必要とされる資質も備わっていたのだろう。

 

反乱を鎮め、劉備たちに教えを施す

 やがて故郷へ帰った盧植は、小さな学校を建てる。すると、そこに… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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