小説『三国志演義』において、蜀には五虎将(関羽張飛趙雲黄忠馬超)がいて、魏には四天王(夏侯惇夏侯淵曹仁・曹洪)という位置づけの名将たちがいる。そして呉にも孫堅に仕えた四天王と呼ばれる武将たちがいた。その筆頭が程普(ていふ)である(他に黄蓋・韓当・祖茂)。

 

傷だらけになりながら、孫堅を盛り立てる

 三国時代の呉は、南方に割拠した国だった。しかし、程普は中国の北方にある幽州(ゆうしゅう)に生まれた。劉備や張飛の出身地に近いところである。若かりし頃はそのあたりの地方役人をしていたが、次第に世の中が乱れ、「黄巾の乱」(184年)が起きた。すると程普も武器を手に取り、乱を平定するために立ち上がる。

 そうしたなか、彼はひとりの勇敢な武将に出会う。孫堅と名乗るその男は、黄巾討伐軍の将として目の覚めるような活躍を見せていた。それを見た程普は心服し、配下に加わることになったのである。また同僚となる黄蓋(こうがい)、韓当(かんとう)も、共にその軍に加わった。ちなみに「孫堅に真っ先に仕えた部将たちの中では、程普が最年長だった」と、正史『三国志』にはある。

 孫堅軍は「黄巾の乱」を平定したあと、都・洛陽を牛耳っていた董卓軍との戦いに出陣した。そして陽人(ようじん)という戦場で、呂布や華雄の軍勢を破った。程普も最前線に出て戦い、身体にたくさんの傷を作ったという。まさに「叩き上げ」の戦士であった。

 こうした活躍のすえ、孫堅軍は諸侯に先がけて洛陽へ攻め込むが、すでに董卓は洛陽の街を焼き払って長安へ去ったあとだった。『呉書』という書物によれば、このとき孫堅は洛陽城内の井戸の中から玉璽(ぎょくじ=皇帝が用いる印章)を発見して持ち帰ったという。

 小説『三国志演義』では、それが玉璽であることを鑑定するのは、誰あろう程普である。「これは天が殿に授けられたもの、ここに長く留まることは良くありませぬ」と進言し、武勇ばかりでなく、学識の高さを見せるのだ。

 孫堅の死後、程普はその息子・孫策に仕え、さらに武勇を発揮する。孫策が丹陽郡で祖郎の大軍に囲まれたとき、程普は一人の騎兵だけを連れて突撃し、包囲網を切り崩した。この功績で同僚の黄蓋や韓当よりも高い、零陵(れいりょう)太守などの地位を得るのであった。

 

若い周瑜と同格になった、重鎮のふるまい

 孫策が26歳で世を去ると、程普は若き主君・孫権を盛り立てていく。そして208年の「赤壁の戦い」では、周瑜とともに総指揮を任じられ、曹操軍との戦いに臨んだ。だが、ここで問題が起こった。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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