上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第53回)

無血開城は是か非か? 劉禅が下した生涯唯一の決断

2017.11.19 Sun連載バックナンバー

 劉禅。その幼名である阿斗(あと)は、中国において阿呆や無能の代名詞とされている。父の劉備諸葛亮が建国した蜀を滅亡させた「暗君」だからというのが理由で、とにかく逆の意味で超有名人なのである。

 だが、よくよく三国志を読んでみると、彼を本当に暗君と決めつけていいのか。という疑問に突き当たる。いうなれば徳川慶喜(よしのぶ)ひとりに、徳川幕府滅亡の責任を被せて良いのか。蜀の滅亡は、そんな事例と似ているのだ。

 

趙雲に命を救われ、やがて2代皇帝に即位

 劉禅は、赤壁の戦いの前年にあたる西暦207年。荊州に身を寄せていた劉備と側室・甘(かん)氏との間に生まれた。このとき劉備はすでに49歳。よって長男ではなかったはずだが、これまで各地を転々とし、戦に負け続けていた劉備の子たちは生死も行方も不明。養子の劉封(りゅうほう)を差し置いて、劉禅は生まれながらに世継ぎの第一候補として扱われた。

 ほどなくして、劉備陣営は曹操軍の襲撃を受けて居城を捨て去り、東南へ逃れる。逃避行中、生まれたばかりの劉禅は置き去りにされるが、趙雲(ちょううん)の活躍で保護され、無事に父のもとへ戻った。趙雲の活躍あってこそ、後の2代目皇帝・劉禅は生き永らえたのである。

 それから時は流れて西暦223年。劉備が遠征先の永安宮(えいあんぐう)で没した。皇太子となっていた劉禅はその跡を継ぎ、蜀の都・成都(せいと)で第2代皇帝に即位する。このとき17歳。劉備は死の間際、劉禅に「これからは諸葛亮を父と思え」と言い残す。

 劉禅はその遺命に従って諸葛亮に政治の全権を与え、やがて北伐(魏討伐)の総指揮をとらせた。自らは「蜀の象徴」として成都に住まい続け、諸葛亮を支援した。だが11年後の234年、諸葛亮は病により陣中に没する。敵である魏の国力はあまりに大きく、蜀は漢の復興という志を果たせぬまま、大黒柱を失ってしまったのである。

 その後、北伐は諸葛亮に代わって姜維(きょうい)が続行したが失敗を重ねた。蜀の国内には「丞相(諸葛亮)でさえ無理だったのだ。ましてや姜維では……」という声も高まっていく。だが、劉禅が北伐の中止を命じることはなかった。それは魏の打倒こそが、父帝・劉備や諸葛亮の悲願であり、また蜀という国の存続理由でもあったからだ。

 

即位から40年、蜀に訪れた滅亡の危機

 連年繰り返される軍事行動は民を疲弊させ、国内に厭戦気分が広がっていく。元から国力で大きく劣る蜀の勢力は次第に衰えた。その一方で、諸葛亮の死から20年が経ち、30年になろうかという時まで、蜀には大きな騒動や反乱も起きなかった。国内に限っては、長く平穏な状態が続いていたのだ。劉禅の「徳」がもたらした安定政権であったといえよう。

 しかし、そんな平穏もついに破られる時が来る。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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