上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第52回)

三国の勝利者・司馬懿、50歳からの覚醒で天下を奪う

2017.10.22 Sun連載バックナンバー

 三国志の時代、天下を統一して最終勝利者となったのは魏・蜀・呉のいずれでもない。魏にとって代わる形で興った晋(しん)という国家だった。あたかも鎌倉幕府の源氏将軍が3代しか続かず、北条氏に政権を奪われたことを想起させる。

 必ずしも人の思う筋書き通りにならないのが歴史の複雑さであるが、その筋書きを変え、晋の礎を築いたのが司馬懿(しばい)という人物である。

 

曹操の存命中は爪を隠し、存在を消していた?

 司馬懿には司馬朗(しばろう)という兄がいた。この人は曹操のもとで出世を遂げた才人だった。あるとき、人に「君の才は弟(司馬懿)に及ばんな」といわれたが、司馬朗は意に介さず同意したという。曹操が、その評判の弟を見過ごすはずがない。「ひっ捕らえてでも連れてこい」と部下に命じたため、司馬懿は曹操に半ば無理やり仕える羽目になった。

 しかし、司馬懿が本格的に歴史の桧舞台に躍り出るのは、曹操が没し、さらにその息子で魏を建国した曹丕も世を去り、曹操の孫・曹叡(そうえい)の代になってから。一説に、その才能を曹操に警戒されたことで地味に振る舞っていたとも、あるいは曹操が彼を重用しなかったからともいわれる。どちらにせよ、司馬懿の才が注目を浴びたのは、彼が50歳を過ぎてからだ。

 西暦228年、蜀の丞相・諸葛亮が、魏を打倒するため、名高き北伐の軍を起こした。魏将・孟達(もうたつ)がこれに内応し、魏の国内は動揺する。このとき、いち早く立ちあがったのが司馬懿だった。当時50歳の司馬懿、フットワークも軽く、孟達の謀反に気付くとすぐに兵を引き連れて討伐に向かったのである。

 孟達が反乱を起こした上庸(じょうよう)までは約1ヶ月の道のりだった。しかし、司馬懿は兵を励まして昼夜兼行し、たった8日で到達。慌てふためく孟達の軍を攻め破ってしまった。豊臣秀吉の「中国大返し」を思わせる電光石火の早業で、諸葛亮の出鼻を挫いたのである。

 その後、司馬懿は魏の全軍を率いて蜀軍を迎え撃つ大任を命じられた。激戦は3年に及んだが、さすがに諸葛亮は手強かった。司馬懿は局地戦で幾度か敗北し、古豪の重臣・張コウを戦死させてしまうなど、たびたび苦杯を舐める。だが、陣営だけは死守して踏み留まり続けた。

 

強靭な忍耐力で、諸葛亮を死に追いやる

 234年、諸葛亮が5度目の北伐に出陣し、五丈原(ごじょうげん)に陣営を構えると、司馬懿も陣営を構築し、守りを固める。このとき、司馬懿はある決断を下した。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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