いつの世も、後継者争いは組織を滅ぼすほどの惨事につながる。今回紹介する劉封(りゅうほう)は、まさにその火種となってしまった人物だ。

 劉封の登場は、劉備曹操の手から逃れ、荊州(けいしゅう)へ入った西暦200年過ぎ。当時、劉備は40歳を超えていたが世継ぎをもうけていなかった。そうしたなか、地元の名家から養子を迎えようとの話が持ち上がる。

 

劉備に養子入りした直後、暗雲が……

 劉備は、名家に住む寇封(こうほう)という若者をいたく気に入った。齢は十代後半。気力に満ち、武芸も達者だった彼は、この日より姓を劉に改め「劉封」と名乗った。めでたく後継者候補ができ、劉備陣営は喜びに包まれる。

 ところが、それから数年もしないうちに、劉封の将来に暗雲が立ち込める事件がおきた。西暦207年、劉備の妻が念願の男子、劉禅を産んだのである。せっかく養子を迎えながら、すぐに実子が生まれる偶然。あるいは不幸というべきか。わが国、日本においては豊臣秀吉が秀次を養子に迎えた直後、秀頼を授かった例が思い起こされる。

 小説『三国志演義』では、劉封が劉備の養子となるのは劉禅の誕生後。意図的に順序が逆にされているのだ。それを知った関羽が「すでに若君がいるのに……」と疑問を投げかけるという、なんとも先行きに不安を覚えさせる場面が創作されている。

 ただ、その心配をよそに、若き劉封は数多くの戦場で活躍する。小説の描写を借りれば、主に関平(かんぺい、関羽の子)と組み、良きパートナー同士として各地を馳せ回った。214年の益州攻めでは諸葛亮張飛に従って戦い、劉備の蜀制圧にも貢献した。一方で、曹操の息子・曹彰(そうしょう)との一騎討ちに敗退するなど不覚をとる場面もあったが、上からの命令に忠実な将として過不足ない働きぶりであった。

 養父・劉備も、軍務に勤しむ彼を愛し、どんどん出世させた。身内びいきもあり、待遇は他の武将よりも高くなった。当の劉封も、それで次第に自信を得ていったようである。

 

魏と交戦中の関羽を見捨てる

 西暦219年、劉封は上庸(じょうよう)の攻撃を命じられる。そこには、先に孟達(もうたつ)という将軍が派遣されていたが、彼だけでは心許なかったため、その援軍として赴いたのである。

 合流した劉封と孟達は協力して上庸を攻略したが、パートナーの孟達は内心不服だった。役職上、劉封のほうが上位のため、指揮権を譲るかたちとなったからだ。しかも、劉封は孟達が愛用していた軍楽隊(軍隊に所属する音楽隊)を没収してしまった。そうしたこともあって、両者の仲は気まずかったという。

 その年の夏、劉封にとって人生最大の岐路が訪れる。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、紀行家

日本史・三国志を題材に各種雑誌やウェブに連載記事多数。歴史取材の傍ら、城や温泉に立ち寄ることが至上の喜び。著書に『高野山 その地に眠る偉人たち』(三栄書房)、『三国志 その終わりと始まり』(三栄書房)、『ひなびた温泉パラダイス』(山と溪谷社)。神奈川県横浜市出身。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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