孔明の罠? 三国志の枠を超え、名前がひとり歩きする存在
「三国志で一番好きな人物は?」というアンケートを取ると、たいてい第1位になるのが、諸葛亮(しょかつりょう)である。三国志を知らない人も名前だけは知っていることが多く、毛沢東・孔子・始皇帝などと並び、知名度は抜群といってよい。
どちらかといえば、姓名の諸葛亮よりも字(あざな。中国人が成人したときに付けた通称)の孔明(こうめい)と呼ばれることが多い。昨今のインターネット上では、「孔明の罠」という言葉をよく見かける。何らかの失敗をしたとき(孔明が仕掛けた)罠にハマった、と自嘲する形で使う言葉だが、三国志ファン以外の方が使うこともあるのが面白い。孔明は三国志の枠を超え、名前がひとり歩きするほどの存在なのである。

さて、史実において孔明が世に出たのは、西暦207年ごろ、27歳のときといわれる。劉備(りゅうび)の熱烈なスカウトを受けて仕えることになったのだ。当時、不遇をかこっていた劉備は「山奥に若き才人が住んでいる」との噂を聞きつけ、彼の自宅を訪ねた。劉備は20歳も年下の若造に対し、自らの足で三度にわたって足を運び、頭を下げたのである。「三顧の礼」と呼ばれる故事だ。
孔明も、賢人を強く欲していた劉備のもとであれば、「自分の才を存分に発揮できる」と考えたのだろう。その熱意、誠意に打たれ、ついに仕官を決める。このころ、曹操が中国の北半分を統一して南下を開始した時期で、劉備たちは真っ先に標的とされ、辛くも逃げ延びたところだった。
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