曹操が治めた魏国において、「五将軍」という、武勇に優れた5人の将軍たちがいる。これまでに張遼・于禁・徐晃の3人を紹介したので、残るは楽進(がくしん)、張コウの2人となった。今回は楽進にスポットを当ててみたい。
名もなき「記録係」として採用される
楽進が生まれたのは黄河の流域の河南(かなん)、春秋戦国時代には「衛(えい)国」と呼ばれた土地だった。そこは中原(ちゅうげん)に位置する文化の中心地で、旗揚げ当初の曹操はこのあたりを拠点に活動を開始した。曹操の呼びかけに応じ、多くの若者たちが集まってきたが、楽進もそのうちの一人だった。
しかし、最初はまったく無名の存在。肝は据わっていたが、身体が小さかったためか、与えられた仕事は軍の記録係であったという。それでも楽進は黙々と仕事に取り組み、曹操の転戦に従って乱世に身を投じていく。
そんなある時、曹操軍は軍事力増強のために各地で兵を集める。楽進もその役目を命じられたが、彼は地元へ戻るや1,000人以上も兵を連れ帰ってきた。地元では名の知れた男だったのかもしれない。「短期間にこれだけの兵を集めるとは……こやつ、只者ではない」と思ったのか、曹操は楽進を将軍に取り立てたのであった。
こうして、兵を率いる立場となった楽進は、戦いの最前線で活躍を続ける。出陣した際は常に「一番乗り」の戦功を立てた。小柄ながら、呂布軍や劉備軍との戦いでも臆することなく突き進む彼の姿は、いつも味方の兵たちを勇気づけたのである。
曹操は旗揚げして約15年で華北(中国の北半分)を制した時、楽進の活躍を于禁、張遼と並ぶ者として讃えた。「武力が優れるばかりでなく、計略を知り、忠義にして純一。その指揮で落とせない陣営はない。兵を労わり、命令に違反せず、決断に失敗がない」と、べた褒めしたのである。
楽進は第一線で活躍する頃になっても、平素はあまり目立たなかったようだ。寡黙かつ不器用な軍人のまま、命令を黙々とこなした。華々しい活躍とも無縁で、次第に他の将軍の後塵を拝するようにもなっていくが、曹操はそんな彼を愛したし、顕彰するまたとない機会とみたのだろう。
己を殺し、ひたすら職務に没頭
彼が寡黙で不器用な人物であったことは、何より正史『三国志』の楽進伝が物語っている。まず、その中には… 続きを読む